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03-3 泥梨を這う獣たち

 廃病院の内部は暗澹としていた。かつて精神科の閉鎖病棟だったというこの建物には窓が少なく、何より息苦しさが勝る。割れた硝子や赤く錆びた鉄扉、薄汚れ塗装の剥げ落ちた壁。当然ながら人一人おらず、放置されクッションの破れた車椅子や散乱した資料を見ていると、気味が悪いとは正にこの事だと頷きそうになる。ここまでくると一種のグロテスクさを覚えても仕方がないだろう。

 ユーリスは病院が苦手だった。看護師だった母を思い出して、酷く息苦しい。

 そんな苦しさを吹き荒れる瘴気のせいにして、入り口でうろついていた狼型モノを三匹片付け、また三匹に追い立てられながら二階への階段を目指す。三階B棟、308号室。ユーリスとシリウスの目的地はかなり深部にあるという。

「三階なら外から飛び込んでも良かったんじゃ……」

「それが出来るんならやってるよ。308号室はかなり奥まった所にあるし、俺が電子ロックを仕掛けたから簡単には開かない。飛びきり頑丈にしてあるからね」

 シリウス曰く、彼は相棒であるロキと共に308号室を第二の拠点としていたようだ。無論、王都には黙って。この病棟に突如モノが大挙して押し寄せてきたのは二週間前で、今ではすっかり機械狼の棲家になってしまったそうだ。

「奴らを何とかしないと解除にかかる時間を稼げないんだよ。それにここのモノの挙動はおかしい。あんたにも予想できない行動を取るかもしれない。下手に動くよりかは実直に攻めたほうが賢明でしょ」

「挙動がおかしい? 故障でもしてるのか」

「長くなるから簡潔に言うけど、院内に魔女の遺物があって、それから出てる磁波がモノを狂わせてるみたい」

 ユーリスは目を瞬いた。魔女ではなくモノばかりを相手にしていたため他人よりは機械獣の生態や性質には詳しいつもりだが、挙動が狂うという話は見聞きしていない。

「うわ、挟まれてら」

 二階に上がった途端、廊下の先から駆けてくるモノを認め「げ」と舌を出したシリウスはそう言いながらも向かいから迫る狼に突っ込んでいく。

「ちょ、ちょっと!?」

「俺は大丈夫だからこいつ何とかして」

 シリウスは勢いそのままに襤褸の壁を蹴ってモノの攻撃を避け、猫のようにくるりと着地する。渾身の飛びかかりが空振り、宙で身動きが取れなくなった機械獣にユーリスが咄嗟に回し蹴りを食らわせると、奴は開放的な窓から階下へと落ちていった。

「おお、ナイスシュート」

「人の気も知らずに呑気だなあ……」

「肉体労働は苦手なのさ。そういうのは出来る奴に任せんの。適材適所だよ」

「じゃあ君は何が得意なんだ」

 シリウスは口角を上げ、指でこめかみをトントンと叩きそのままユーリスの背後を指差した。

「後ろから来てるぞ」

「分かってるよ、もう!」

 先を走るシリウスを追いながら、隙を見てモノたちに剣を突き立てる。シリウスといえば本当に必要な時に剣を振るうぐらいだった。運動神経はいいのだろうが、先程足を滑らせて落ちてきたことやロキの言い分を考えると、亜種らしからぬ失敗が多く戦闘はよほど不得意と見える。

 気づけば三階。とどめを刺したモノの数は六体。彼らは特殊なモデルでもなくユーリスにとっては楽な相手だった。より手強いのは仮にも命懸けの戦いの最中に、割れた窓の向こうにスマートフォンのカメラを向けている青年だ。食えない子だなとユーリスは苦笑うしかない。

「そういえば今晩は満月かあ。明日は雨だな」

 息を整えるついでに倣って外に目を向ける。外で響き続けている轟音、むせ返るような熱を纏う毒風が頬を撫でる。ここの風は熱病を運ぶとの噂を思い出すが、体の火照りは気のせいということにした。眩しい晴天にはひつじ雲が浮かび始めていて、それを掻き分けるように聳える例の巨塔は白さを増し輝く。天辺の石は相も変わらず陽光を極彩色に染め上げきらきらと光っていた。

「モノはあと一体かな。俺がさっき下に落としたあいつ」

「ああ、うん、多分」

「……ここに入る前にも多分って言ってたね」

「確かなことが言えないだけ。さっきの狼たち、動作不良を起こしてなかったでしょ」

「特別変な様子はなかったと思うけど」

「もしかしたらもう遺物が壊されてるのかもしれない。奴らがここに来たのも十中八九あれの破壊が目的だろうし。そうなるとあと一匹が魔女につくか人間につくかが分からない」

 小走りに院内を進みながら、シリウスはスマートフォンに目を落とし「うーん」と唸っている。シリウスの言葉の真意は計り兼ねるし、何を見ているのかはどうにも教えてくれそうにない。

 窓から差し込む光を頼りに連絡通路を通り抜けると開けた場所に出た。ぼろぼろの回診カートやパソコンが打ち捨てられ、カウンターの上部の文字は辛うじて「ナースステーション」と読める。壁には「300~310号室」との案内があった。

 辺りを見回すと、奇妙なことに足元が煌めいていた。花弁型の琥珀のような塊が至る所に散らばっている。ユーリスは最初こそこれが魔女の遺物とやらかと考えたが、魔女の死体が花のような宝石になるという噂を思い出した。だがそれにしては――僅かな違和感はナースステーションのカウンターに置かれた一枚の紙によって頭の片隅に追いやられる。

「SV038……?」

 廊下を走るシリウスを見失わないよう追いながら、勝手に拝借した紙に目を通す。整然としたフォントで印刷された、薬に関する資料だった。

 

・エスブイ・ゼロサンハチ。通称「ニル」。意識は覚醒したまま痛覚だけが麻痺する特殊麻酔。

・2194年に使用解禁。機能身体に支障のない怪我であれば、痛みを無視し平常通りの戦闘を可能にする。

・デメリット:身体マネジメントが困難。発汗、眩暈、重度の幻覚、筋弛緩等の禁断症状が強く、薬物全般への耐性が強い亜種は依存度が高くなる傾向にある。

・2196年、亜種への使用が禁止され、後に人間への投薬も禁止。製造凍結。

追記:生存本能の抑制が現状不可能と判断され、戦闘不能にも関わらず戦闘行為を欲する兵士たちの発狂を抑止するために開発を要請。主材料は第三都市ハイドラ、エリア75『ストリ鉱山』より採掘される鉱石・ニドライト。責任者は――。

 

 刹那、ほんの僅かな空を切る音と共に、窓から差し込む光を影が遮った。一瞬のこと、されど緩やかに錯覚する。地上軍のスタンダードな軍服をはためかせ真っ直ぐ落ちた人影。深く被ったフードで見えない目の代わりに、口には隠そうともしない嗤笑。

 ユーリスは慌てて窓から身を乗り出したが、透視でようやく王都の方向に走っていくのが見えたぐらいで、背丈など詳細は分からず終いだった。シリウスもあの影を見ていたのか、余裕綽々とした笑みは鳴りを潜め、目を丸くしている。

「何だったんだ、今の」

「関わらないほうがいい」

 ぴしゃりと言い放ち歩を早めるシリウス。知り合いなのかと問える空気でもなく、未だ続く喧騒に背を押された。



 

 308号室は他と比べて小さな病室だった。引き戸だが上下左右の四隅に黒い機械が取り付けられている。外からは見えなかったが、すぐ隣には天井や部屋の壁を打ち抜くように巨大な穴が空いていて、光が燦々と降り注ぐ。病室だったのであろうその残骸部分には黒曜石のような破片が大量に散らばり、シリウスは「やっぱりね」と不満気に鼻を鳴らしていた。この粉々になった石こそが魔女の遺物なのだろう。

「外のモノがこっちまで来ないか見張ってて。五分ぐらいで解除できる」

「ほんとに頑丈なんだな」

「二重三重のロックだからね。バレたら俺の首が飛ぶ……いや、生きたまま燃やされるのほうが正しいか。それ程のものがここにはある」

 シリウスが308号室のドア前に携帯を置くと、複数のホログラムインターフェイスが起動した。青白い光で構成されたキーボードを叩くシリウスをしばらく見ていたが、目まぐるしく切り替わるディスプレイの表示は僅かも理解できそうになかった。

「殿下とロキが心配なんでしょ。大丈夫だって。殿下も亜種の中じゃ結構やるほうだよ。うちの相棒も精鋭を除けば三本の指に入る筋肉バカだし。何より呪われてるしね」

 外のざわめきに耳を澄ませていただけで心の内を見透かされる。それもあるが、とユーリスは一度は噤んでおくべきとした思案を口にした。

「君のお姉さんは、その――」

「処刑された。暴力を受けていたフローズを庇ったせいでね」

 言い淀むこともなくきっぱりと、予想通りの返答だった。シリウスはディスプレイから目を離さないままで、表情は窺い知れない。

「あの姉弟の母親――シンハ妃が処刑された時、あんた王都にいたの?」

「……いや。でも大まかなことは知ってる」

 

 六年前のことだ。世歴2201年、王都は二度目の襲撃を受けた。フローズは自室の窓から侵入してきた魔女の兵を身を挺して庇った。自分を殺しにきた相手を、自分を守りにきた人間から。後々の調べでは、その魔女は戦闘には全く役に立たない異能者で、ただ銃だけを武器とし、外見は十歳にも満たないような子供だったという。

 フローズは魔女の嫌疑をかけられ幽閉の後に処刑される運びとなった。だが彼女の母・シンハは、娘を洗脳したのは私だ、真に排すべきは私なのだと声を上げる。妃は小瓶に入った薬を軍に渡し、それを飲ませれば娘にかけた洗脳は溶けると話したそうだ。以来フローズは魔女を擁護する思想を一切口にせず、魔女を庇ったのも覚えていないと主張した。

 一方で己は魔女の仲間であるとの言い条を決して曲げなかった妃は、間もなく火刑に処された。確かに愛をもって慈しんだ、幼子らの眼前で。

 

「妃に元からいい噂はなかった。あんたと同じで左右の目の色が違う、先天性ヘテロクロミア。得体の知れない民族の生まれで、時代錯誤のアナログな薬師。強制されたとはいえとんでもない薬も作っちゃったしね」

 言葉の一つ一つが突き刺さるようだった。フローズとヴィトニルが「魔女の子」と呼ばれる理由。その真の起源をシリウスは知らないのだと、ユーリスはまた臍を噛む思いを全身に受ける。

「洗脳なんて嘘に決まってる。薬瓶の中身なんてただの水か何かでしょ。愛する人のために一芝居打てる人なんていくらでもいる。フローズは妃の意を汲んで共存派の思想を封じた、妃は娘のために魔女派を偽った。馬鹿で狂った人間はそれを信じた。人類の敵である魔女に繋がるものは排除して、疑わしきも全て罰する。それが今の地上に蔓延る排斥思想」

「……君は、お姉さんが死んだのはフローズのせいだと思ってるのか。だからあんな、彼女を貶めるようなことを」

「殿下はとばっちりを受けてるだけでしょ。俺もロキも、あの二人をただ虐げるような奴らとは違う。責任の所在を探すのも、責任を背負いこむのも、不毛って言ったらそれまでなんだからさ」

 ようやくディスプレイに浮かんだ解除までのカウントダウン。シリウスはそこで初めて振り返った。色を正しユーリスを見つめる深藍の瞳に、怒りや憎しみは映っていない。

「義姉さんが死んだのはフローズのせいだなんて思ってない。生まれてくる場所なんて選べないし、どんな思想を掲げようが人の勝手だけど……それでも許し難いことはある。それならそれで良識を以て動かなきゃならない。俺は目先の敵を見つめすぎて、人が背負うべき罪を見誤るような人間じゃない」

「ならどうして」

「義姉さんみたいな優しい人が、フローズやヴィトニルを庇って殺されていくのはもう御免なんだよ。愛した人が殺されるのを涙も流せずに見ているだけの苦しさなんて、知らないほうがいい」

泣いてしまえば疑われる。涙を流してしまえば殺される。炎から目を逸らすな、内に燃える瞋恚にも投げつけられる悪意にもただ黙せよ。でなければ炎はやがて己を焦がすことになる。

「……後で、街のど真ん中で泣き叫んで死んでやろうかとは思ったけどさ。俺とロキはあんたみたいなお人好しそうな奴が王都に来るたびに、それとなく一芝居打ってるだけ。王都の、地上の掟を知らない奴は今でも多い。特に遠方から徴集された亜種。閉鎖的コミュニティの出身者や孤独に生きてきた人たちね。異端の炙り出しが目的なんだから、わざわざ懇切丁寧に教えてくれる人なんていないでしょ」

 画面上で忙しなく切り替わっていた数字がゼロの羅列に落ち着く。シリウスがまたキーボードを叩いた。

「フローズとは半ば共謀関係ってことになるかな。あの人は俺らの思惑を知りながら黙認している。あの人自身が自分を庇って死ぬ人間を出したくないと望んでいる。これは俺たちの正当化じゃない、はっきりとした事実」

 ピピ、と電子音が鳴る。シリウスが扉を開けたが、中に窓は一つもなく、足を踏み入れると同時に今まで以上の鬱々たる淀みが纏わりつく。拘束具のようなベルトがぶら下がる医療ベッドが一つ、配線が絡み合う機械がいくつか。そして部屋の奥の壁に、神教徒の装身具『ハリ』がひっそりと飾られていた。輪を十字で裂いた金属製のシンボルは赤い紐で結ばれている。シリウスの義姉はこれをブレスレットとして身につけていたのだろう。

「お墓を作ることも許されないんだよ。骨も灰も何ひとつ残してもらえない。こんな闇の中に、気休めに眠らせてあげることしか」

 墓石代わりのブレスレットの前には光を絶たれ萎れきった花。シリウスは鮮やかさも失われたそれを拾い上げる。彼はきっとこの場所を解放してほしかったのだろう。陽を見せること叶わずとも、せめて会いには行けるように。

「生きろ、という言葉は呪いだ。大事な人のために嘘を吐いて自分まで騙して、それでも生きていかないと、呪いをかけた人の願いを叶えられない」

 呪われている。何度も彼が口にしていた文句だ。誰しもが誰かを呪い、誰かに呪われている。そう思わせるだけの悲壮が横顔に滲んでいる。

「……俺は、フローズの気持ちは理解できるつもりだよ。誰に何を言われても、何をされても、たったひとつのものを命綱にしてようやく生きてる。でも俺はそこを通り過ぎてしまった。だからこそ、俺には彼女を救えない」

 ならば、誰が彼女を救えるというのか。それは人の形をしているのか、それとも目には見えないものなのか。

 シリウスが部屋を出ようとしてぴたりと立ち止まる。視線の先、部屋のすぐ外でこちらを伺う機械仕掛けの狼。

 ぐ、と喉がなり、ユーリスは剣を抜きかけたが前の青年はそれを静止した。行儀よく足を揃え座るモノはまるで日向ぼっこをする飼い犬のようで。狼は濃桃色の一つ目をきゅるきゅると回した後、小首を傾げてそのまま走り去っていった。

「ま、人生悪いことばっかじゃないよ。悪いことの方が断然多いけど」

 希望が一つでも見えているうちは死ねないさ。

 はは、と暗闇の外で笑う紅顔の青年。彼は狐につままれたような顔のユーリスに微笑みかけて、枯れた花を風に攫わせるかのごとく、陽の下へ優しく放った。

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