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03-4 泥梨を這う獣たち

「おーい、大丈夫なのほんとに」

 些か困惑したような声が投げかけられる。二人揃って無事に廃病院を脱したまでは良かったのだが、やはり瘴気に当てられたのか。答えるのも億劫なほどの熱がユーリスの体中を這っていた。

「君は平気なのか……」

「まあねえ、腐っても亜種だからさ。耐性あるんじゃない? 少なくともあんたよりは」

 シリウスは冗談めかして言ったつもりだったのだろうが、ユーリスが乾いた笑いを漏らすとついには顔をしかめ、彼の髪を掴んでくしゃくしゃと掻き乱す。

「瘴気っつったって死ぬほどのもんじゃないから元気出しなって。最悪でも一日二日寝込むぐらいで済むってハナシだし」

「頭痛いんだからやめてくれ……」

「うるさーい、先輩が励ましてやってんだから文句言わないのー」

 照れ隠しなのか、シリウスは誤魔化すようにやいのやいのと騒いで手を離してくれない。意外心配性なのかもしれない、とユーリスは苦笑った。

 晴天穿つ巨塔を横目に、雑草が生い茂る廃病院の敷地を出る。足早になるのは、少し先の白い瓦礫の向こう側で宙を飛び回る影が見えたからだ。

「魔女の襲撃からもう一時間だ。まだ引き上げないつもりなのかな」

「あの双子の態度見てるとそんな大した作戦じゃなさそうだったけど? モノも逃げたのか見当たらないし――」

 突如、瓦礫の上から飛び出してくる影。宙を飛ぶロキと目が合った次の一瞬には、彼はユーリスとシリウスの前にすとんと着地していた。派手に土煙が上がる中、続いてフローズがロキと同じ軌道で華麗な跳躍を決める。砂埃の向こう、瓦礫の上には双子魔女がこちらを窺いながら浮遊していた。

「ちょっと、なんで連れてくるのさ」

「タイムリミットだ、もしまだ仕掛けて来ても四人いりゃあ退路ぐらいは開ける。それよりこいつら、新入りに用があるらしい」

 三十分近く魔女を二人も相手にしていたというのに、ロキは大した怪我もなくけろりとした顔で、青空を背にした魔女たちを顎で指した。対するフローズは服を所々赤く染めながらも、どれも致命的な一手にはさせず上手く立ち回っていたようだ。特徴的な色の髪はフードに隠し、腰から肩に掛けた剣帯の布も取り払っている。

「やっと見つけた! 一匹狼のお兄さん、あのねえ、陛下からの伝言があるんだよ! ちゃあんと聞いてね!」

 短髪の少年然とした魔女オルトロスは硝煙絶えぬ戦場に不釣り合いな快活さで、確かにユーリスへと話しかけた。他に言わなきゃいけないことがあった気がする、とケルベロスが話していたのを思い出す。ミルクティーのような色合いの、二つにまとめた長い髪を隣で靡かせるケルベロスが静かに口を開いた。

「これはけいこくだ」

 しん、と空気が澄むような感覚。辺りを駆け巡る風の音だけが瞬間を支配する。

「天てんに仇なす危険分子はその一切を排除する。ユーリス・マナウルヴル、貴様の存在そのものが我らへの反逆であると知れ。貴様はゼロに足を踏み入れてはならない。反旗を翻すべきは神であり、捻じ曲げるべきは信仰だ」

 さもなくば、我が瞋恚しんいを以て貴様の尽くを灰とする。

 八重歯をちらつかせ喋り切ったオルトロスに、今まで愚直なまでに纏わりついていた幼い子供の影はない。冷然とした、恐ろしく無情な声だった。

「……だって! あんまり陛下を怒らせると怖いよ~!」

 一気に無邪気さを取り戻しけらけらと笑ってみせるオルトロス。たったの一言だけ喋ったケルベロスも、その隣でうんうんと頷いている。何か間の抜けた声を出したロキによって、ユーリスはふと我に帰った。

「そりゃそうだわな、モノを壊しまくるってこたあヘカテーに直接喧嘩売ってるようなもんだし」

「そういうつもりでやってるんじゃないんだけど……」

「本気で言ってる? あれだけ派手に動いてるんだから何か策があると思ってたんだけどなあ」

 シリウスが呆れて手をひらひらとさせた瞬間、隣でただ押し黙っていたフローズがぴくりと顔を上げた。反射的にその視線の先を見るユーリスたち。魔女の後ろ晴天を斬り刻むかの如く、白く閃く刃光。

「わ、わわ! やだなあもう、人間ってどうしてこう頭が悪いの!?」

「その言葉、そっくりそのまま返してやろう。呑気に地上に留まっていたのを後悔する事だな!」

 キンキンと打ち鳴る金属音。双子魔女の兵装であるリボンが伸縮し、容赦なく振りかぶられる刀を何度か弾いた。刀の主は長い三つ編みを翻し、陽光を刃で舐めるよう、弧に反しながら果敢にも二人に攻め込んでいく。

「なんでスコールがここに――」

 何かが違う。ユーリスは漠然と思った。そうだ、以前目にしたスコールの戦闘とまるで違う。例えるならば何も恐れていない動きだ。痛みも、死も、何一つ。

 そこで初めて、真剣と真剣がぶつかる鋭い音がした。第三者の介入をスコールは瓦礫の側面を落ちながら蹴り回避する。ようやと地面に降り立ったスコールの前に、軽々と着地したのは黒いドレスの。

「またお会いできて光栄だわ、狂犬さん」

 同じくして悠々と、地でハイヒールを鳴らす女。長く真っ直ぐな茶髪を手で流し、不敵に微笑むライラプス。双子魔女は彼女の背後に隠れるようにしてゆっくりと降下してきた。

「ライラってば遅いよう! 僕らもうちょっとで死んじゃうとこだったじゃん!」

「そーまとーが見えちゃったね」

「元はと言えばあなたたちの物覚えが悪いからでしょう。陛下もなぜこんな仔犬たちに言伝を頼んだのかしらね……」

 ぷっ、とスコールが口内の血を吐き捨てる。こちらに背を向けたスコールの表情は分からなかったが、魔女たちを修羅の如く睨んでいるのだけは確かだ。

「死とは生あるものに等しく訪れる。ただ早いか遅いかだけの話よ。だからリスクを冒してまであなた達をここで殺す必要もない」

「そう言うな。もう少し付き合えよ、猟犬女」

「嫌だわハイになっちゃって……特別に加減をしてあげてるのよ。それぐらい理解なさい。それに私、弱い男はタイプじゃないの。お生憎様」

 ライラプスが青い瞳に憫笑を見せたと同時に、三人の魔女はゆっくりと浮遊を始める。

「ご機嫌よう、狼さんたち。悪徳の時代を制す、我らが王による審判の日は近い。世界が終わるその時まで、せいぜいこの苦海を足掻いてご覧なさいな」

 すうと空を滑るよう飛び去っていく姿。手さえ振ってのけた彼女らをスコールは追わなかった。何を思ったのかは知らない。だがその右手に握られた、というより包帯できつく巻きつけられた刀の鋒は、空を切り捨てる音と共にユーリスたちに向けられた。

「俺が言いたいことは分かるだろう。余程の馬鹿でなければな」

 ゆっくりと顔をあげるスコールの瞳がぎらつく。王宮で見たあの狼の瞳。誰もが彼の出方を窺うように息を止めた。そして少しの沈黙を経て、スコールの口端がぎっと広げられた瞬間。

「なぜみすみす機を逃したのかと聞いているッ!」

 身が竦むほどの怒号。それは吹き荒ぶ風、砂塵全てを撃ち落とすかのよう。怖気を押し殺し、咄嗟に何かを言おうと進み出ようとしたフローズを、前のプロキオンが腕を上げて制止した。

「悠長に話をしている暇があるなら奴らの首を掻くぐらいの真似をしろ、四人もいるなら魔女二匹ごとき恐るるに足らん相手のはずだ!」

「……魔女の進撃開始から一時間、奴らがそれ以上の攻撃を仕掛けてこない限りは追撃は禁じられてる。控えの第二陣のせいで大損害が出た前例を、仮にもあんたが忘れるわけがねえ。そうだろ義兄さん」

 ロキは背に追った東方の刀――確か苗刀と呼ばれる代物だ――に手をかけながら諭すように、それでいて沈着に声を上げる。

「俺らは一時間きっちりで戦闘は切り上げた。奴らもそれ以上は仕掛けてこなかった。何ら問題はねえはずだ。むしろあんたの方が軍紀に反してる」

「上手く話を逸らしたつもりかプロキオン。もう一度聞く、貴様らは一体何をしていた?」

 シリウスが一瞬片頬を引きつらせたのが見えた。スコールはそれを見据え怒気を緩めもせず続ける。

「なぜ四人で魔女を攻めず二手に分かれた? あんな廃墟に何の用がある、それは魔女を討つより重要なことか?」

「じゃあモノを野放しにしてもいいってわけ? あいつらのせいで何人死んだか数えられないってのに」

「猟犬女の話を聞いていなかったのか。魔女の襲撃は日に日に生温くなってきている。加減をしてやっている、その言葉通りだ。奴らは人間を根絶やしにするのが目的だ。だが今回の奴らは第二陣を投入こそすれ、猟犬だけを寄越してすぐに撤退した。まともにやり合わずして勝つ算段が奴らにはある、近い内に何かを仕掛けてくると考えるのが自然だろう」

 刀は未だ下されず、鋒は僅かも動かない。砂混じりの熱風がスコールの三つ編みを撫で続ける。

「その何かで王手をかける気だとしたら? 俺たちにはもう時間がない。回り道をしている暇などない、あんな機械はヘカテーさえ討ち取ればガラクタにすらならん」

「へえ、つまりは戦争が終わりさえすりゃあ、その過程でどれだけ死人が出ようがどうでもいいってわけ」

 魔女の思惑を測るため、スコールはわざと戦闘許可時間に反し、リスクを無視して追撃を仕掛けた。ユーリスと同じ予想をしたのか、シリウスは吐き捨てるように声を荒げる。モノや魔女による犠牲を無視した言動に本気で怒っているのか、それともハッタリをかけているのか。演技だとしてもシリウスの声色は最もらしく、語尾が段々と強くなる。

「大のために小を切り捨てる、それを正義だって言い張るなら、まったく高尚な正義だよ。反吐が出る」

 スコールの顔が僅かに上を向く。一陣の風が過ぎ去ってすぐ、彼は丸くした目の片方を細め、堰が切れたように高笑った。ユーリスたち四人は流石に当惑を隠せず、手で顔を覆い肩を震わせる男を見つめる。崩れ落ちた石壁までもが呵呵と声を反し響かせた。

「はは……正義、正義か……よく言ったものだな。貴様らがその高尚な正義とやらで俺たちを虐げていないことを祈るばかりだよ」

 弱い引き笑いを摺ったまま、スコールは一層その瞳に狼の血を映し、啖呵を切って出た。

「俺は大のために小を切り捨てた貴様らとは違う。その真逆だ。この世界では有象無象の正義が矛盾し合う、そんなことは十二分に分かっている。人間共がさも訳知り顔で決めつけた正義など何の役にも立たん。正義のイデアなぞ問うても永遠に答えは出ない、だから俺は人が崇める真っ当な正義などとうに捨てた!」

 その叫びは、ユーリスには悲愴に思えた。背を冷たい汗が伝う。眼前で燃やされる瞋恚の炎で、彼が独り灰燼に帰すのではないかと。

「守りたいものを守るために、目指すものを実現させるために戦うだけだ。どれだけ狂人と呼ばれ獣と並べられても、理想のためならばあらゆる手段を行使する、自他問わず必要な犠牲は幾らでも払う。この世界に魔女は無用だ、一匹残らず殺し尽くす。俺の理想は奴ら全ての屍の上にしか成り立たない」

 

 一点の汚れもない理想がこの世に成ると思うなよ。

 

 静かに狼の瞳には光があった。それこそが彼の選んだ道であって、たったそれだけを信条に死線を潜り抜けてきた。濁るはずがなかった。その光を失ってしまえば、何も見えない暗闇しか残らない。

「……その理想が」

 駄目だ、と心が一言だけを繰り返す。その道には必ず終わりがある。ただ奪い沈みゆくだけの泥の梨。進んではいけない。先にいかせるわけにはいかない。フローズたちの制止も無視してユーリスは一歩一歩と前に進み出た。

「お前の理想が叶ったとしても、お前がいなくなったら意味ないだろ!」

 懇願に近い、やっとのことで絞り出した祈りの言葉だった。どうか引き返してきてほしかった。自分と、ネメアが立っている陽の下まで。

「死んだら意味がない、死んだらおしまいだ……!」

 請う胸中とは裏腹に、くく、と喉が鳴り溢れ出すような一笑。

「ああ、そうだな、あいつが言っていた。理想というものは一番理解してほしい人には分かってもらえないように出来ている。あの頃と何も変わらないお前が、何もかも変わった俺を理解できるはずがない」

 ようやく鋒が地に向く。スコールのくすんだ青い瞳は一転牙を抜かれた獣のように、代わって感傷のようなものが宿り始めていた。

「過去に戻る術はない。この世界のどこを探しても、どんな叡智を手に入れても、神の力をもってしても絶対に不可能だ。だから俺は、過去に戻すために戦っている」

 妙な言い回しに募るは不安のみ。なおも鈍く光る狼の眼には僅かな迷いが見て取れた。

「まさかとは思っていた。こんな予感は外れてほしかった。ユーリス、お前はただこの戦争を終わらせるために、人類を勝利に導くために王都に来た訳ではないな? 本当の目的は俺を連れ戻すことだ、そうだろう? ならば今までの話は全て違ってくる」

 遅すぎる直感が走る。落下するフローズを受け止めたあの時、ちらと見せた彼の笑みが、やさしい失笑などではなかったと。呆れや安堵ではない諦観、不安から生まれた虚だったのだと。

「それは考え得る限り最悪の答えだ。俺の今までを打ち崩す、希望の皮を被った絶望だ。こんなことなら俺は……」

 じりとブーツの踵を砂に滑らせ、スコールは振り返り様に、至極静かに呟く。

「お前には二度と会いたくなかった」

 伏せられた目線は絡まない。蝕まれた手が震えないよう縛りつけた右手の包帯を解きながら、スコールはひとり砂風の向こうへと去った。

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