03-2 泥梨を這う獣たち
いまだ陽は高く、爽やかとも言える陽気に似つかわしくない喧騒であった。王都を囲むように引かれた水路を渡る際には、橋の上で王都に逃げ込む人々に押し返されそうになった程だ。
地上軍は王都近郊の要所に防衛ラインを設けているが、全ての魔女を押し止めるのは不可能に近い。王都に逃げ込んだところで生き残れる保証などないのだが、それでもより遠くへと走る。生存本能に抗う理由も術もないのだろう。そう他人事のように思いながら、ユーリスは防衛ラインの第二陣として第八都市ウトパラへ向かった。
「第八都市、エリア47のゲートか……」
現存しているゲートの中では王都から離れている方だが、高速飛行を可能とする魔女には些細な距離差である。
「避難は進んでるのか」
「第二都市や第三都市方面への経路は全て開放されたわ。王都北東の人たちはそちらまで逃げ切れるでしょうけど……先日は魔女の王都への侵入を許した。今回は意地でも止めないと」
ユーリスの隣を走るフローズの声は確固たる決意の下に発されていた。一国の姫としてか、一人の軍人としてかは分からないが、彼女はいつの時も人間を守ろうと必死であった。どんな悪意を、好奇の目を向けられようと、歯を食いしばり睨めつけながら、最後の最後にはふと笑うのだ。彼女は今日の日も変わらず、まず他を案じた。ユーリスは常々彼女に、心底がざわつくような憐憫を抱いている。
「西部は故郷に留まりたいと頑なに動かなかった人々が多いわ。王都から離れれば離れるほどに……第八都市の人たちは、地を守るという信仰心に支配されている」
「瘴気か……」
第八都市には毒性のある風が吹く地域があった。主に熱病を発症させるという研究結果が出たが毒の出処は分からず終いなせいで、精神汚染を引き起こすやら不治の病に侵されるやら、物騒な噂が未だに流れている。環境汚染説、感染症説もあれば呪いだの祟りだのと非科学的に解釈する者もいたが、この地に住む人間は不思議と耐性を持ち合わせていて、山から降りてくるとされる未知の風と、風が吹き荒れるこの地を神聖視していた。地上で一般的とされる「神教」とはまた違う、異境の信仰。
「俺たち神教徒には分からないものがあるんだよ、ここの人たちには」
「……本当に、神って、一体何なんでしょうね」
ユーリスはフローズの顔色を伺ったが、彼女はそれきり何も言わなかった。
エリア10番台を抜け、20番台に差し掛かった時には既に風が激しく重苦しいものに変わっていた。毒性の風、俗に言う瘴気だ。砂漠の都市らしく砂塵が舞う中、十人中五人の魔女がエリア30番台の防衛ラインを突破したとの通信が入った。交戦も時間の問題だろう。
次第に例の女の声がサイレンのように頭に鳴り響き、ユーリスは顔をしかめる。戦え、そして勝ち残れ。この苦海を生き抜くために。
「まったく、毎度毎度しつこい」
フローズがそう独りごちて自分の頭をこつんと叩いた。そういえば、とユーリスは逡巡する。あの廃ショッピングモールでも、フローズは同じように独り言を呟いて頭を小突いていた。
「もしかして君にも聞こえてるのか」
「何の話?」
「これから魔女やモノと戦うって時に聞こえないか? なんというか……ノイズの混じったような、女の人の声が」
「……嘘」
傍らを走るフローズは目を見開く。
「だって、誰もそんなの聞こえないって言ってたのに。スコールも、ヴィトも」
「何だって……?」
自分だけに聞こえていると思いこんでいた。他人も聞こえているのならユーリスの認識は間違っていたことになるが、このように限定的な現象となると奇妙な話だ。
フローズが急に足を止めたので、ユーリスも慌てて立ち止まった。白い石造りの住居が立ち並び、民族の紋様が描かれた布が閃く街。風の吹き荒れる音だけが聞こえる閑散とした地であったが、確かに人の気配は感じられた。あまりに不気味な静けさに、既にフローズは深呼吸で頭を切り替えてしまったようだ。
「長居は禁物よ。少しでも体調に変化が出たら、すぐに――」
その時、物陰から飛び出してきた影があった。幼い少年は、手に何かを握りしめて、鬼のような形相で腕を振りかぶる。
「フローズ!」
ユーリスはフローズを庇おうとしたが、彼女はそれを逆に制止した。ユーリスの腕を引っ掴んで後ろに追いやった彼女は頭を一瞬仰け反らせていたが、ゆっくりと顔を上げる。
「でてけ! まじょのむすめ!」
少年が肩をひくつかせながら鼻水を啜っていた。大粒の涙を流しながら口を引き結ぶ彼の顔からは憎悪と恐怖が見て取れる。恐らく、フローズは石を投げられ顔に食らったのだろう。彼女は何も言わず、ユーリスからはその表情は窺い知れない。
するとすぐに同じ物陰から、民族衣装と思しきローブを頭から被った女性が飛び出してきた。少年の母親と思しき女は、口の端を震わせて子を抱きしめながら、鬼気迫る目をじろりとこちらに向ける。魔女の娘に激情が向けられるその瞬間をユーリスは初めて目の当たりにした。彼女に向けられる感情は悪意ではなく怯えと行き場のない怒りだ。彼らは己の正しさを盲信していて、その正当性を地上という国家が保証するのだ。
踵を返して隠れようとする親子を前に、なぜ彼女がこんな仕打ちを受けなければならないのだ、と叫び出しそうになるのを必死で堪えていると、フローズが弾かれたように顔を上げ飛び出した。
「下がって!」
フローズに突き飛ばされた親子は一瞬何が起こったのか分からないといった顔をしていたが、すぐに母親が悲鳴を上げた。親子がいた場所は焦げのように黒く抉れていて、奇妙な煙を燻らせている。頭上で蠢く影に、ユーリスは目を疑った。
「花……?」
毒々しい紫色の花弁はまだいい。雌しべがあるべき場所に歪な歯、涎のように垂らされる溶解液。そして何より人間を有に超える巨体が、住居の屋上に陣取り揺れていた。
「早く逃げなさい、母親でしょう!」
フローズの叫声に呼応するように、女は子を抱いて駆け出していく。その様子を花が奇妙にも、さも目で追うように花弁を動かしていた。その怪物の横に、何処からか少女がふわりと降り立つ。
「こんにちは」
長い髪を二つに結った、裸足の少女。幼く愛らしい顔に似つかわしくない、獣の如き四白眼の左目がユーリスを捉える。ユーリスは剣を構える手に力を入れたが、少女――魔女は通信機で誰かと話しているようだった。
「ねえオルト、お兄さん見つけた。どうしよう」
フローズがユーリスの方ににじり寄ってきても、魔女は何もせずただただ二人を見ている。
「……ケルベロスよ。必ず双子の姉妹と一緒に行動している。気をつけて」
「俺を探してたみたいだ。目的は分からないけど、場合によっては君が切り札になるかもしれない」
フローズは微かに頷いた。そこで初めて気づいたが、彼女の右額は切れていて、少しの血が流れていた。
「ねえ、お兄さん。へいかが怒ってるよ」
愛らしいが抑揚のない声。風に揺られる髪と、静かなまばたき。表情からは一切の感情が伺えない。
「陛下って……ヘカテーのことか。どうして」
「……何でだっけ? 忘れちゃった」
ケルベロスは手枷の鎖を手で弄りながら、間の抜けた答えを返す。
「聞きたいことがあるの。魔女を見なかった? 蜂蜜みたいな色の髪で、ええと、メロンソーダみたいな目の色で、銃を持ってて……リュカオンっていう子」
「前にも聞かれたよ。案外、仲間意識が強いんだな」
「ちょっと、呑気に話をしてる場合……?」
フローズが少し苛立ったように咎めてきたが、ユーリスはそれを小声で制した。
「案外素直に物を話してくれるタイプだ。魔女の、ヘカテーの目的が分かるかも知れない」
「目的って言ったって、人間の殲滅以外に何があるのよ」
「……俺には、奴らの目的が本当にそれだけとは思えない」
案の定フローズは怪訝な顔をした。ケルベロスは傍らの怪花を、犬の頭でも撫でるかのように触る。防衛ライン突破時に怪我でもしたのか、そのか細い腕からは血が滴っていた。
「お兄さん、知ってる? 狼って群れで狩りをするの。でもね、たまに群れない子がいて……一匹狼っていうんだけど、その子は他の群れを襲って乗っ取ったりするんだって」
「裏切りを恐れてるのか?」
「裏切られても別に気にしないよ。ただ、生きてたらめんどーだからって、陛下が言ってた」
よしよし、と自分より二周りも大きな花を撫で続けている彼女には、警戒心というものがおよそ感じ取れなかった。
「そのリュカオンって魔女を探し出して始末するつもりなのかしら。何か持ち出されてはまずい情報を握っていたりとか」
どうだろうか。リュカオンは地下軍でも末端の一兵士に過ぎないと言っていたし、彼女がユーリスに話した地下の情報もこれといって意外なものや重要そうなものも無かったように思う――彼女が嘘をついていなければの話だが。
「あるいはその魔女自体に秘密がある、か……」
推測の域を出ない。ヘカテーはただ不安分子を排除したいなのだけかもしれないが、事はそう単純ではない気がしてならなかった。リュカオンを発見する契機となったあの得体の知れぬ感覚が全身で燻っている。
「知らないならいいや。……何か他に言わなきゃいけないことがあった気がするけど、忘れちゃった。今日はね、本気出さなくてもいいって陛下が言ってたの。……ケリーは番犬、苦しみの海から逃げる人を食い殺すさだめ」
ケルベロスがスカートについた砂埃を払った瞬間、彼女の髪を結う黒いリボンに濃桃色のネオン光が浮かび上がった。
「でも今日は、ちょっとだけやさしくしてあげるね」
一陣の風かと思われたのは衝撃波。鋼鉄でもなければ打ち破れないであろう石壁を、あのリボンは砕いてみせた。ユーリスとフローズは横っ飛びで何とか事なきを得たが、壁に突き刺さったリボンはしゅるしゅると伸縮し、勢いよく二人を追尾する。
「硬度操作と切断を主にした兵装……面倒ね」
多くの魔女は能力補助や戦闘力強化を目的とした機械的な武器を有している。ケルベロスの場合はあのリボンらしい。縁を飾るネオン光に触れてしまえば人間の体など一溜りもないだろう。
「彼女は自分の血を媒介にして、あの気味悪い花を作るそうよ。もう血を流してたし、無闇やたらに近づいても足元をすくわれる。すぐ増援が到着するわ。上手く四人で叩けたらいいけど……」
確かに、通信機のホログラムでは軍人が二人こちらに近づいてきているのが分かったが、表示されている名前に覚えはなかった。
「でも双子の片割れもすぐ近くにいるかもしれない。この二人も先にそっちと鉢合わせる可能性だってある」
「……撃破を目標にするべきじゃないわね。一時間ここで持ち堪えるほうが現実的だわ」
魔女の異能には一時間の発動時間制限がある場合が多く、そのせいか襲撃も一時間以上継続した例は殆どない。ここで魔女を二人押し止められれば被害も小さくなるだろう。
ユーリスとフローズは王都とは逆方向に走りながら追撃をかわす。すぐ近くで何か叫び声が聞こえ始めた時だった。素早く地を蹴る鉄の音と唸り声が聞こえ、間髪入れず黒い影が上空から飛びかかってきた。
「モノ……!」
その数、二体。咄嗟に避けた方向はフローズとは逆方向で、石造りの壁の間を縫うように走りながら彼女の名を呼ぶ。通信機からの応答が入った時には、ユーリスの背を追う狼は四体に増えていた。
『無事よ! こちらにも四体いる!』
「合流しよう、君じゃ倒せない!」
『ならあなたは八体も同時に相手できるの? 私でも時間稼ぎなら出来る、任せて!』
通信が切れると同時に牙を剥いて飛びかかってきたモノに回し蹴りを食らわせ、入り組んだ路地へと入り込む。壁を蹴って追ってくる三匹のモノ、前方には例の怪花。花が身をくねらせたのを見計らって、ユーリスは後ろを振り返った。ちょうどモノの額に見えた移動式コアを狙い突き、その悲鳴も聞かずに二匹目を薙ぎ払う。三匹目、突進してきた狼の牙に刃を噛ませ、腹を蹴り上げた。再び振り返れば、花から噴射された溶解液が迫る。ユーリスは転がり身悶える狼を躯体を持ち上げ、溶解液めがけて放り投げた。
溶解液はコアごと機体を溶かし尽くした。残ったのは異臭と黒いオイル、電子音の絶叫。あの怪花は機械獣よりも質が悪い。
「わあ、すごいね。そんな使い方する人はじめて見た」
「そりゃどうも……!」
追いついたケルベロスはふわふわ漂いながら呑気に声を上げていた。彼女は宣言したとおり全力を出していない。また路地裏に逃げ込むユーリスを見ても、それを尻目に花を撫でているだけだった。
ユーリスは少し離れた路地裏に身を隠した。二人組の軍人が双子の片割れと戦っているのか、銃声と喚き声がすぐ近くで聞こえる。先程攻撃を食らわせたモノは、透視で見る限りユーリスを見失い探し回っているようだった。動体検知型なのだろう。奇襲を仕掛ければ倒すのもそう難しくはない。フローズの援護に向かうためにも、と腰を上げた時だった。
「うわっ!」
まさに降ってきた。足でも滑らせたのか、少し高い瓦礫の上からすっ転ぶようにして落ちてきた人間を見て、ユーリスはつい声を上げてしまった。ああくそ、と頭から被った石やら砂やらを払い、打った脇腹を擦っている彼の癖毛には見覚えがあった。
「おいバカ兄! またドジやりやがって、今度こそおっ死ぬぞ!」
「よそ見はだめ〜!」
「うるせえゾンビ犬! さっさとボロ小屋に帰りやがれ!」
瓦礫の上からひょこりと頭を覗かせ怒号を浴びせる男。あの長髪も見たことがある。
「呪われてるからそう簡単に死なないって」
「君、前に教会前で声をかけてきた……」
青年のじとりとした目が見開かれる。間違いない。整った眉を動かして、彼は溜息を吐きながら起き上がった。
「出たな一匹狼……まだ五体満足?」
仏頂面を隠すことなく、パーマのかかったような、ふわとした頭を乱雑に掻く。その言い草にユーリスはついむっとした。
「彼女と組んだから、なんて嫌な噂流さない方がいいよ」
「先輩に説教? 能天気そうな顔してるけどほんとにそうなんだ。結構いい度胸してるね。噂じゃなくて事実なんだけど。フローズに関わったやつは本当にろくな死に方しない――」
突然跳ねたように青年がユーリスの頭を思いっきり掴み、地面すれすれまで押し付けた。あまり急だったので近距離の銃声すらはっきり聞こえた気がしなかった。
「死んでるくせにヘッドショット狙うとか、なんか生意気」
青年に急かされ立ち上がったユーリスが目にしたのは地上軍の軍服を纏い、こちらに照準を合わせる男。その胸はおびただしい血糊で汚され、顔には生気がなく白目を剥いている、思わずぞっとする出で立ちだった。ユーリスと青年が路地を逃げ回っても、男は操られた人形のようなおよそ人間ではない動きで追跡してくる。
「何なんだあれは……」
「本気で言ってる? あんたも軍人になったんなら魔女の資料ぐらい目通しときなよ」
「まだデータベースのアクセス許可が下りてないんだって!」
「許可ぁ? なに生温いこと言ってんのさ。死にたくなきゃ不正アクセスなり買収なり何なりやれっての」
「そんな無茶な――」
突如響き渡ったのは壁が打ち砕かれたような轟音。
「てめえらはアホか! 戦場でしょうもねえ喧嘩してんじゃねえぞ能天気ども!」
背後の開けた道から砂塵と共に飛び出して来たのは先の長髪と、双子の魔女。ケルベロスはなおも無表情だったが、傍らの少年然としたオルトロスは哄笑しながら浮遊して追ってくる。ユーリスも青年も堪らず情けない声を上げて、長髪男の前を必死で駆けた。
「ちょっと……わざわざこっちに連れてくる馬鹿がどこにいるわけ?」
「一人に二匹の相手させるお前の方が馬鹿だろが!」
「そーだよねー! 僕らを一人で倒せるわけないでしょ、おバカさん!」
「ねー、おばかさんだね」
オルトロスはおかしさを抑えきれないと言った様子で肩を震わせながらくすくす笑っている。こんな状況でなければただの無邪気な子供で済んだだろうに。
「ね、ケリー、面白いからこのままずっと追っかけちゃおっか!」
「いいよ。本気出さなくてもいいもんね」
「ってなわけで、お兄さんたち! 僕らが鬼だから頑張って逃げてねー!」
「こういうのをカオスって言うんだよなあ」
「だから嫌だったんだよこいつらの相手すんの! 一匹叩けばもう一匹手ぇつけられねえバケモンが出てきやがる!」
嫌気全開で面倒そうな顔の癖毛男と、引っ切り無しに文句を言い続ける長髪男。やはり生粋の亜種だけあって、ユーリスには追いつくのがやっとだ。
「おいあんた、魔女の娘はどうしたんだよ!」
長髪男に大声で問いただされて、ユーリスは萎縮する。
「は、はぐれちゃって……」
「はぐれたぁ!? ったく新人はこれだから!」
フローズの居場所は分かる。マップを見る限りは無事なようだが、どう考えても退っ引きならないのはこちら側だった。相も変わらず楽しそうに追いかけては先回りする魔女二人と、意表をついて現れる怪花や銃を構えた死体のような軍人たちに挟まれ続ける。
「どっちでもいいから早く何とかしてよ、この状況。俺もう疲れた」
「こんなこと言ったらあれだけど、魔女相手は本業じゃないんだよ……」
「なんだそりゃ、じゃあ機械相手なら本気出すのかよ!」
「そっちのほうが得意ってだけの話!」
加えて前を走る亜種の全力疾走ときたものだから、ユーリスも流石に自棄になって叫んでいた。だが癖毛のほうは急に押し黙って、ユーリスに妙な事を問う。
「ねえ、モノ相手なら本気出してくれるの?」
本気というより本領発揮が正しいが、と頭が回らなくなってきたユーリスはなんとなく考えていたのだが、長髪のほうは露骨に嫌な顔をしている。
「やべえことを考えてる顔だ。ついに今日が命日か……」
「うるさいよ。ねえ、どうなの? やれるかやれないかどっち?」
「分かった分かった! そこまで言わなくたって俺に出来ることならやるよ!」
いよいよ投げやり極まったユーリスは咄嗟に声を上げてしまったが、理解の追いつかないうちに癖毛に腕を引かれる。
「なに!? ちょっと!」
「ロキ、後は頼んだ」
大通りを逸れ狭い裏路地をなおも走る。二人を追ってきたのはケルベロスだったが、住居の屋根に登った長髪男が彼女に斬りかかって魔女を双方堰き止めたのがかろうじて見えた。
『おい、まじで俺の命日にする気か!?』
「骨は拾ったげるから恨むなよな」
ロキと呼ばれた長髪はまだ何やら喚いていたが、癖毛――ホログラムの表示から、こちらは恐らくシリウスという名だろう。彼はいやに真剣な顔つきでだんまりを決め込んでいる。
『一人で僕らに勝てると思ってるの? もしかして英雄気取り?』
『笑わせやがって! 俺は英雄って言葉がこの世で一番嫌いなんだよ!』
微かに拾われた中性的で幼い声、青年の一層大きくなる怒声、地を蹴る音。吹き荒ぶ熱風を掻き分けるようにして、ユーリスはシリウスを見失わぬよう路地を疾駆する。
「一体どこに……」
「少し先にある廃病院。いつもは狼型モノが巣食ってるんだけど、今は半数があの双子魔女の援護に回ってる。深部に潜り込むなら今だ。こんなチャンス二度とないかもだから、一緒に来てよ」
「あいつを置いていってもいいのか!?」
「そう簡単には死なないよ。俺と一緒で呪われてるから」
見えるのは亜種にしては華奢な背中ばかりで真意は読めない。それきりシリウスは押し黙り、廃病院らしき荒れるに任せた建物の前で、やっと立ち止まった。教会のような外観だったが、窓ガラスは割れきり石造りの壁にも数え切れないほど亀裂が入っていた。
「あんたならあそこのモノの大群、蹴散らせるよね?」
少し肩で息をするシリウスが、玄関口の先でぼんやり光る濃桃色の光を指差す。先程見たものと同じ、狼型のモノが辺りを見回るように跋扈していた。
「あの先に何が……」
「義姉さんの形見」
シリウスは食い気味で、はっきりと呟いた。暗がりの院内を真っ直ぐ見つめる瞳には、先までのちゃらけた色はない。ただ事ではないなとユーリスが直感した時、ふと通信機からジリとノイズが聞こえた。
『モノはなんとか撒いたわ。あなた、シリウスと一緒にいるの?』
緊迫から半端に解放されたためか、フローズは溜息混じりに早口で喋りきった。ユーリスは傍らの青年を横目に口ごもる。
「それが……」
シリウスもロキも、魔女の娘を敵視している。その逆も然りだろう。シリウスはじっとユーリスを見るばかりだった。フローズに話しても良いものかと思いつつもいきさつを話したが、返って来たのは意外な言葉だった。
『あなたはどうしたい?』
一つ思ったのは、試されている、ということ。ユーリスが真意を汲もうと黙っていても、フローズは何も言わないままだった。
「……協力する。俺の力が誰かの役に立つなら、なんとかしたい」
『そう言うと思ったわ』
呆れたような、それでいて納得のいったような声。彼女はきっと笑っているとそう思えた。
『彼の願いを叶えてあげてください。魔女は私たちで止めてみせる』
「殿下、ちゃんとロキの援護できる?」
『……甘く見られたものね。そんな無駄な問いかけ、二度と出来なくさせてやるわ』
「ま、姫様はそれぐらい気が強いほうがいいんじゃない?」
シリウスが通信に割り込んできた途端にフローズは語気を強めたが、彼は綽々とした嫌味を返している。ロキからの通信は戦闘の激化で聞こえづらかったが、声の端には妙な高揚を滲ませていた。
『ったく、これが上にでも下にでも知られりゃとんでもねえことになるな……新入り、殿下は責任持って守ってやる。だからお前も兄貴を死なすんじゃねえぞ!」
「君たちフローズのこと嫌いなんじゃ……」
『訳ありなんだよ! 話は後だ後!』
当然の疑問を即座に撥ね付けられて、通信は途絶えた。あ、切れた、と呑気に呟いたシリウスは、一昔前の携帯電話――スマートホンという代物だったか。それを懐に仕舞い込んでユーリスを一瞥する。元の調子に戻ったのか、その顔は皮肉ったような薄ら笑いになっていた。
「やっぱりお人好しだったか。俺らの目に狂いはなかったってわけだ」
フローズとロキがあの双子魔女相手に耐え凌げるか未だ気がかりであったが、シリウスがようやく剣を抜いたので覚悟を決める他なくなる。
「三階B棟、608号室。モノは多分10体。そこまで俺を生きたまま連れてって」
シリウスはまた真剣な面持ちでじっと廃病院を見上げた。
「じゃ、臨時バディってことで。よろしく、お兄さん」
「……よろしく。道案内は任せるよ」
表情も声色もころころと入れ替えて、彼は端麗ながら意地悪っぽい笑みを寄越してくる。灯りの乏しい廃墟に足を踏み入れながら、ユーリスは柄を強く握り直した。温く刺々しい風が真正面から吹きつける。ごうごうと気味悪く吹き荒び反響する風音は、さながら奈落を嘆く群狼の遠吠えだった。