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03-5 泥梨を這う獣たち

 ユーリスは故郷の教えから救済の神の存在を肯定こそしていたが、本当に神がいるのなら今の戦乱の世をどう説明するのかと、信仰者たちに問い正してみたかった。

 だが神の存在、権能の是非よりも、明日を生きるか死ぬかを考えるほうが多くなっていく。人類も魔女もできる限りの犠牲を抑え戦争を終わらせて、スコールと共に故郷へ帰るというのは傲慢なのか。もう完全には取り戻せないあの日の平穏を追い求めるのを、唯一の救いと考えるのは愚かなのか、高望みなのか?


 

 また今度奢るから、と遠回しに感謝を述べてくれたシリウスにも、生返事を返してしまったように思う。ロキは最後まで何かと気を使ってくれたし、フローズも終始かける言葉を探しているような顔つきだったので心苦しかった。

 中央区の住処に転がり込むと、リュカオンは素っ頓狂な声を上げながらも慌てて体を支えてくれた。憔悴しきったひどい顔をしていたに違いない。大した怪我はしていないのを不審に思った彼女は、ユーリスの額に手を当てて余計に狼狽えていた。

「一体何があったの? ひどい熱……」

 ユーリスをベッドに寝かせ濡れタオルを額に置いたリュカオンは、他に何をやるべきかと両の手を握っては緩めて、その顔は憂色を極めている。

 高熱が瘴気のせいだとは分かっていた。身体中を襲う倦怠感や寒気なんてものより、ずっとずっと胸が痛かった。今まで縋り続けていたものが独善的夢想に過ぎなかったこと、一体何が正しいのか分からなくなってしまったこと。

「……俺があの時、王都になんて行っていなかったら」

 声は惨めに震えている。もう、いっそ誰かに言ってしまおうと思って。

「あいつが一人で戦うこともなかった。一人で王都に連れて行かれることもなかった」

 第二都市アシュバタ、エリア28。ニルヴァーナ一族の聖地『鎮めの地』。ユーリスとスコールは生まれついてから、村の奥深くの民家にて半ば監禁状態で育った。黒と灰の髪色、異常な身体能力。髪の染め粉さえ容易く落としてしまう特異な身体。ユーリスに至っては特殊な瞳のせいもあって、何としても人目を避ける必要があった。王都にばれれば連れて行かれるのだから。

 看護師だった母は元よりニルヴァーナに関わりがあったらしく、スコールとネメアの叔母――ユーリスが「先生」と慕う彼女の進言で、一族の者ではないユーリスも匿われた、という話だった。スコールの姉であるネメアと共に薬学を学んだり、時たまやってくる村の子供たちと一緒に、先生から昔話や外界の話を聞かされる日々を過ごす。同い年なはずの子供たちを置き去り成長する心身に、己がただの人ではないと思い知りながら。子供に似つかわしくない静かな少年時代。それでも幸せだったのに、ユーリスはたった一度だけ憧れを追ってしまった。

 ユーリスが母と共に王都を訪れた日に、魔女が牙を剥いた。今日まで母の行方も知れなくなり何も出来なかったユーリスとは対照的に、スコールはたった一人で、家の物置の奥にしまわれていた東方の古い剣を握り故郷を守りきった。

 得体の知れない民族の地。鎮めの地はそう忌み嫌われ人間がそう寄り付く場所ではなく、故に軍も監視の対象にしていなかった。だが流石に近隣に魔女が現れてしまえば話は違う。誰も助けに来てくれない、万が一来たとしても手遅れになる。だからこそ戦ったスコールの力を、一歩出遅れたが務めを果たしに来た軍が見逃すはずがなかった。ユーリスが騒ぎの終息と共にやっとのことで帰郷した時には、彼の姿はどこにもなく。ただネメアが弱く咽び泣いていたのが耳を劈くほどに聞こえたのを覚えている。

「みんなに内緒で、あいつと約束してたんだよ。もしどっちかが軍に連れて行かれたら、追いかけるからって。そうすれば寂しくないだろって」

 所詮は子供の戯言だった。変化の連鎖を愚かにも信じていたからこその誓い。家族を奪われ、憔悴しきったネメアを放っていけなかった。ユーリスがこっそりと、隠してあった剣を手に取ったのを目にしたネメアが半狂乱でしがみついて来たのを未だに忘れられないのだ。置いていかないで、と喚く彼女に泣きながら謝ったことも。

 白いカーテンの隙から月を見上げる。ベッド傍の椅子に座るリュカオンから顔を逸らすためだったのだが、ほんの僅かに欠けた眩しいまでの黄は、人を魅了してやまない。

「スコールを待ってる人がいるんだ。あいつが生きるのを願っていた人がいたんだ。俺にはもう、他に出来ることがない」

 快活で無邪気だったネメアが痛々しくもすっかりと、無感情に変貌してしまったのを見て、いよいよ罪の意識が色濃くなる。もう一度剣を取った時、彼女は何も言わなかった。ただ一度弱々しく笑んだだけで、本当は何を思っていたのかは知る由もない。

 すうと吸った空気が肺を痛めつけている気がした。リュカオンは横たわるユーリスの吐露を僅かも身動きせずじっと聞いている。

「あいつの理想に賛同できない。俺は先生の教えを捨てられない、捨てたくない。人間と魔女のどちらかがいなくなるまで、なんておかしい。みんな必死で生きてるんだ、生きていたいだけだったのに。たった一度の過ちがこんなに大きくなるなんて誰も思ってなかった、望んでいなかったはずじゃないか。だってそれまでは手を取り合って生きていたんだろう?」

 リュカオンが、はっと襟を正したのが布の擦れる音で分かった。

「俺はそんな時代を知らない世代だ、だけど……例えこのまま魔女を殺し尽くしたとして、俺はきっと後悔すると思う。スコールの目指す世界が、魔女がいない世界が無性に恐ろしい。理由なんて俺にも分からないけど」

 漠然とした寒心は日に日に膨らんできていた。天地がひっくり返ろうと今この時世では魔女は人類の敵なのだ。

「だからって人間を蔑ろになんてできない。このまま均衡を保つだなんて出来やしない。……どうしたらいいのか分からないんだ」

 彼女たちの命を奪ってでも明日を生きるために戦わねばならないというのに、なぜここまで矛盾した心を抱えてしまうのか。幾年も思案を重ねても答えは出なかった。スコールが真の正義を振り払ったように、答えのでない問いに見切りをつけられたならどれほど楽になれるだろう。

「君はきっと俺の希望なんだと思う」

 ふとリュカオンを見てそう呟くと、彼女は僅かに眉を上げて見つめ返してくる。

「君がいた過去の世界はとても優しくて、綺麗で、幸せだったんだろうなって夢見てるだけだよ」

「……なら、あなたも私の希望よ、ユーリス」

 ふいに、誰もが目を瞠るような、あたたかな微笑みが降り注いだ。

「本当にね、あの頃はとても幸せだったの。私たちは人間に色々なものを与えたけれど、人間は私たちに色々なことを教えてくれた。一日に何度も顔を変える空のこと、心地いい音が決して止まない海のこと。太陽と月が追いかけっこをしているから、地上には光が溢れていること。世界はこんなに広かったんだって、途方もない年月を生きてきた私たちに教えてくれた」

 月を見上げまるで子供のように語るリュカオンの瞳は、月光を浴びてきらきらと輝いていた。瞳の中に星が生まれたような、そんな明緑の瞳。 

「だからね、あなたみたいに私と同じ夢を見続けてくれる人がいるのがすごく嬉しいの。あなたに会うまでは、進み続ける世界にたった一人取り残されている気がしてた。一人じゃなかったって思えたのは、あなたに出会えたから」

 リュカオンは静かに立ち上がって、部屋の壁際に置かれたサイドテーブルに手を伸ばした。彼女が今朝格闘していた古い音響機器――レコードプレイヤーというらしい――は何とか昔を思い出してくれたそうだ。

「過去は変えられないけれど、後悔することは悪いことじゃないと思う。最後に何か一つを選び取れるなら、何も無駄にはならないわ」

 ごそごそとプレイヤーを触る。その作業はてんで分からなかったが、針のようなものが円盤に下ろされた後、優美なピアノの旋律が流れ始めた

「ドビュッシー、ベルガマスク組曲、"月の光"。聞いたことはない?」

「……いいや、ないな」

「そう、とても有名なのに……この曲、弾いたことがあるの。懐かしいわ」

「ピアノが弾けるのか」

「ちょっとだけよ、本当に。ライラの方が上手でね……ええと、ごめんなさい……」

 リュカオンの嬉しそうな笑みはすぐに失笑に変わり、きまり悪そうに目を泳がせる。今や地下を裏切った彼女にとってはささやかな思い出話も心中複雑なものに転じてしまったのだろう。

「……ああ、そうだ、月は死者の国なんですって!」

 無理やり話題を変えようと手を合わせていたが、いやはやこれもどうかと……といったようにまた目を逸らす。合わせた手を傾けて力なく笑うリュカオンに、ユーリスも思わず笑みを零した。

「ずいぶん綺麗な場所なんだな」

「え、ええそうね! でも、太陽が当たるからここからは綺麗に見えるだけなのかしら。いざ月に立ったら案外つまらないところかもしれない」

 大昔に月に行った人もいたそうだが、と話すと、リュカオンは宇宙船なになに号のなになに飛行士が――と矢継ぎ早に返す。何百、もしくは何千と生きてきた故の博識ぶりを、彼女は鼻にかけることもなく嬉々として語るのだった。

 穏やかな、透き通ったピアノの音色が心地よい。気が楽になってきたのか、単に麻痺してきただけなのかは分からないが少しずつ頭にかかった靄が晴れていく。リュカオンはまた夜空に浮かぶ円に目を向けて、そっと呟いた。

「本当に人も魔女も生まれ変わるのだとしたら、月になんて行く暇もないのかしら」

「綺麗だと思って遠くから見ているうちが、きっと一番幸せだよ」

 知らなくたっていいことがある。知ったところで何も出来ない、ただ見ているだけしか出来ないことが。でも知らないままでいるのはもっと嫌だった。

 そんなユーリスの胸中などよそに、リュカオンはまた思いついたように、されど神妙な語り口で。

「死者はまず月に行く、そして雨となって地に還り、植物に吸われたそれは穀物となってやがて生物の糧となり、自らが蘇るための生命を育む……そんな言い伝えがあるそうよ」

 満月の夜の晩は、この世とこの世から消えたもの――忘失との間に水が満ちて繋がりができる日。その夜には不思議な夢を見ることがあるの。失くし物の在り処が分かったり、忘れてしまった記憶を取り戻したり、死んでしまった大切な人と話せたり……少なくない人間や魔女がそんな夢を不意に見るんだって。

「今宵は満月……私も忘れてしまったことを思い出せるかもしれない。その時はあなたに全てを話すわ。何も隠さず、全てを」

 引っかかる物言いだったが、月の光を浴びる彼女はまた顔を綻ばせた。

「光は止まないわ。だからどうか夢を見続けて。私たちは皆それぞれの理想のために生きている。これからきっと皆が色々なものを失うし、何かを捨てる選択をしなければならない。でも手放したものは無くなりはしない。無駄なものなんて一つもない。失われたようでいてすぐそこにあるの。月が欠けてもまた満ちて夜空に現れるように」

 その月に焦がれるようなやさしい顔を、生涯忘れることがない気さえした。ベッドに横たわったまま魅入るように彼女を見上げていると、急に目が合ってばつが悪くなる。

「……あなたの先生の受け売りだけどね。でもどうか、どれだけ苦しくても打ちのめされても希望を捨てないで。あなたの理想はきっといつか、この世界を救える。私はそう信じてるから」

 人も魔女も生き残る道。失くしたはずの幸福を取り戻すための道。その上にこれからどれだけの血が流れるのか。どうしたら辿り着けるのか、その先に何が待っているのか、答えは出ない。未来なんて分かりっこない。それでも最善を尽くしたい、最後に何かを選びとって、勝ち取りたい。

「矛盾してるのは俺が一番よく分かってる、でも……」

 決して消えない後悔を、贖えない罪を抱えてでも、足掻いて生きると決めたのだ。

「でもすごく、うん、いい音楽だと思う」

 気づけば小さく鼻で歌っていた。リュカオンもユーリスを真似て鼻歌を被せていて、ずっと星月浮かぶ天を見つめている。まどろみによって、満月、いよいよ満たされた水の中にゆくりと沈む間際、「おやすみなさい」と囁く声が聞こえた気がした。

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