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03-1 泥梨を這う獣たち

 リュカオンと言葉を交わす度に思い知るのは、凝り固まった価値観の中、今日まで生きてきたという無知さであった。

 魔女が人類の敵へと成り果てた世界。人類が声を揃えて魔女を恐れ、憎み、その生を奪うことを肯定する時代。ユーリスが生まれた時には既に共存の二文字は消えていた。しかし魔女を敵だと決定づけた大衆の隅でただ一人、魔女は悪ではなく人間と同じ心を持つものであると説いた存在があった。教育制度が崩壊したあの頃、同郷の子供たちはみな彼女を「先生」と呼び、今思えばあれほど魔女への怨嗟の声を聞かない日々もなかったように思う。ユーリスも先生の言葉を撥ねつけなどせずそっと心にしまいこんでいて、だからこそ非情になりきれない。

 他人よりかは排他的思想主義者ではないと自負していたユーリスであったが、いざ魔女と語り合ってみると無意識の先入観に染まっていたと気づく。リュカオンは全く穏やかでよく笑い、揺るがぬ根幹のある人で、ここまで地上国民の認識とかけ離れた魔女がいるのかと驚くしかない。

 ユーリスはリュカオンに気を遣って、中央区の住処を彼女に譲ることにした。軍の防衛の範囲内かつ人間がそう寄り付かなくなった場所。身を隠すには最適だろうと踏んでのことである。もちろん様子は何度も見に行ったが、リュカオンは変わらず時計や電灯の整備をしていたり、ユーリスもつい最近気づいた、顔も知らない小屋の以前の持ち主が溜め込んだのであろう床下倉庫の絶版書籍を読んだりと、少しずつ生活のリズムを形成しているようだった。

 ゲート破壊作戦の完遂から二週間もしない内にリュカオンの傷は癒えていたが、地下に帰る気がないのは本当らしく、彼女は知る限りの地下軍の情報をユーリスに話してしまっていた。今日のリュカオンは、家に置き去りにされてうんともすんとも言わない古い音響機器と睨めっこを続けている。

「整備士……っていうと、ヘカテーの機械の整備とか?」

 木の机に広げられた名も知らぬ道具たち、小気味良い金属の音。彼女の手際の良さに感心しながら、ユーリスはふと疑問を投げかけた。

「いいえ、地上に住んで民間の企業で働いてたの。陛下の作る機械は彼女以外の手には負えないから……構造自体が解明されていないのよ」

「じゃあ機械の中を這い回ってる光のことも知らないのか」

 それまで配線をじっと弄っていたリュカオンは目を丸くして顔を上げる。知らない、という顔と納得したような微妙な表情だった。

「やっぱりあなたがモノを破壊した人間ね。地下じゃ有名になっちゃってるわよ」

「だろうなあ……」

「指名手配犯みたいにね。私、人間が好きだからあまり褒められた軍人じゃなくて……今あなたの写真を見たことがあるって思い出したわ」

 互いに眉を下げて笑う。魔女と他愛もない話で笑い合うというのは、なんとも不思議な心地がした。

 いくらユーリスが魔女を敵だと思いきれなくても、人類にとって現状最も強大な敵であるという事実に変わりはない。その割に彼は魔女のことを知らなかった。「まず多くを知りなさい」と、ユーリスに世界を語って聞かせた先生は何度も唱えていたというのに。

「地上と地下を貫く巨塔、その地下側の内部にある神殿に生まれ落ちる。子供から大人の姿まで様々だが、その姿のまま生まれ、成長することも老いることもない」

 広い窓から差し込む陽の光で文字を追う。スコールから王都が管理する図書館があると聞いたユーリスは、魔女の情報を集めるならばここだろうと赴いた。兵営に隣接しているため軍人が多く行き交う場所ではあるものの、館内は全くの無人で小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。

 図書館に通いつめているというスコールによると、彼以外の利用者は普段から殆どおらず、はじめこそいた司書も任を解かれ、資料は持っていくなら持っていけという投げやり極まる運営がなされているらしい。軍関係施設には厳重なセキュリティがかけられてはいるが機密事項を持ち逃げでもされたらどうするつもりだろう、とユーリスは呆れた。いざ蔵書を漁ればかつて一般にも出回っていた当たり障りのないものばかりだったが。杜撰な管理体制が敷かれているのだし当然と言えば当然ではある。だがそんなことよりも幼馴染の本好きな面は変わっていないことが分かっただけで、ユーリスは少し救われた気分になった。

「なぜ生まれるのか、誰が生んでいるのかは魔女自身も知らないという。総じて先天的な異能を宿し、体内の血に書き込まれた術式によって能力を行使する……」

 軍事や魔女に関連した書物が大量に並ぶ中、ユーリスが偶然見つけたのは人間の民俗学者が地下に移住し魔女と語らって記したらしい書物だった。しかしこれを読む限りでは魔女についての謎は未だ解き明かされていないようだ。リュカオンにも同じような質問をしたのだが、彼女も魔女の特異性の理由を全くもって知らないと、何より自分のことが分からないから気味が悪いと口を尖らせていた。

 次の見出しに書かれた"Hekate"の文字に一瞬手が止まる。息を呑んでページをめくると、やはり魔女の王・ヘカテーについて書かれていた。

 ヘカテーは国民から支持され愛された女王である。能力の詳細は不明だが、機械を作るという一点に特化したもので、彼女の能力が地下を機械都市として急速に発展させた。"機械王"とも呼ばれたヘカテーは思慮深く国民を愛し、また人間も愛していた。地上に進出し出会った人類に機械という文明を与えたのはヘカテーであり、結果地上は独自の技術を完成させ、日常生活までハイテク化を遂げる。今やその文明が他でもない魔女の進軍により維持できなくなってきているのが皮肉だった。

 ページの隅に添えられた写真には「地上に来訪した女王」と書かれ、背が高く切れ長の目をした女の姿が写っていた。ヘカテーは女性らしい優美さというより、苛烈だが麗しい印象を与える。取り巻く民衆に笑いかける彼女の瞳は、ユーリスが今まで何体と壊してきたモノの濃い桃色の瞳と違わぬ色であった。

「人間が好き、か」

 今はどうなのだろう、と女王の心中を想像する。人間に微笑む女王、過去を閉じ込めた写真。まだ人類への愛があり苦悩を消せぬまま采配を振るっているのか、既に憎悪のみ駆られ敵国を蹂躙するだけになっているのかは知る由もない。

 次のページに進もうとした時、胸元からピピ、と電子音がした。首から下げた細い棒状の携帯機器が、青い光を点滅させている。真ん中の光に触れるとまた違った電子音と共にホログラムが浮き上がった。これも魔女がもたらした文明の一つである。

 映し出されていたのは軍からの報告通信であった。魔女ライラプスの能力は物体透視及び身体強化。だが二重能力者が存在した前例はない。一つの異能という大枠の中に、そのコンセプトを再現するための複数の異能が備わっている。つまりは戦闘に特化した能力として、今回の調査で透視と身体強化が確認されたに過ぎない。二つ以上の異能を持つ可能性がある上に持続時間、効果範囲も未だ不明。交戦の際はさらなる警戒が必要。

 スコールの報告書を元にしたと思しき文面が堅く無機質なフォントで並べられていた。異能の詳細については推測の域を出ないが、本人たちもその存在の意義を理解していないほどの未知が魔女なのだ。その核心など容易には突けまい。夕陽の中で見たあの針先のように冷淡な顔立ちが粗い画像に落とし込まれている。

 人類と魔女は戦っている。例え過去にどれだけの平穏があったとしても、血と硝煙が臭う現在が全てだ。だが人間であるユーリスは、魔女のリュカオンを殺すことなく助けた。

「……国賊だな」

 ネメアに頼まれたから、という単純な理由だけでは片付かない。それに血の臭いがした時の、あの全身が凍りつくような嫌な予感は何だったのか。リュカオンを失うわけにはいかない、失いたくないのは事実である。だがこのまま人間と魔女の狭間に立ち続けることなど出来やしないとも分かっている。

 突然、ばたんと背後で扉が乱暴に開閉される音がして肩が跳ねた。通路から扉の方を覗くと、息を切らせてへたり込んでいる人の姿が見える。

「フローズ……?」

 物珍しい髪の色ですぐに分かった。ユーリスは小さく呟いただけだったがフローズには聞こえたらしい。彼女は驚いて顔を上げたが、ユーリスを認めると見るからに青ざめ首を激しく横に振った。

「大丈夫だ。俺の他には誰もいないよ」

 ゲート破壊作戦以来、ユーリスはフローズから人前で自分と関わっては駄目と何度も念を押されていた。ほっと目を伏せた彼女にユーリスは慌てて駆け寄ったが、明らかに普通の様子ではない。肩にかけた帯は外れ、いつも整えられていた巻髪も乱れていた。

「どうしたんだ、頬も腫れてるし……」

 左頬は赤く腫れ上がっていて、目には僅かに涙が滲んでいる。どこかにぶつけてできるような怪我ではないし、フローズが肩を上下させるほどに息を上げるなど見たことがなかった。腕の中に一冊の本を大事そうに抱えたまま、彼女は呟く。

「慣れてるから……」

「慣れてるって、もしかして」

「やり返せって思う? 王都に亜種が何人いると思ってるの。私より強い人ばかりなのに、全員を敵に回したら殺される。今こうして生きてるのだっておかしい話なのに。道具として、いたぶっても罪にはならないぼろ犬として生かされてるだけよ」

 一息で喋りきったフローズは一呼吸おいて、「ごめんなさい」と弱々しく漏らした。魔女の嫌疑をかけられ処刑された母親を持ち、魔女の子と呼ばれ虐げられている彼女が手酷い扱いを受けているとは聞いていたが、いざ目の前にすると何も言葉が出て来なかった。

「お兄様たちは虚勢を張って生きてるから、私みたいに半端に戦果を出すとすぐ手を上げるのよ、馬鹿らしい。でもヴィトはあまりできない子だから、お兄様たちも相手にしてない」

 確かにヴィトニルへの中傷の言葉を聞く機会はあまりない。ユーリスに軍関係施設への立入許可が下りてからというもの、ルヴトー姉弟への差別はより目につき始めた。だがヴィトニルに対しては軍人たちも徹底的に無視するか影でこそこそ笑っているかぐらいで、フローズのように直接暴力を振るわれたことがあるとは聞かない。

「私が受け入れている限りあの人たちはヴィトを見ない。私が耐えればヴィトを守れるの」

「だからって君がこんな目に遭うことないだろ……!」

「世界で一番かわいい私の弟なの! お母様は殺された、父は私たちのことなんて我が子とも思ってない! ヴィトはたった一人の家族と言っていい子よ、あの子のためなら何だってするわ!」

 語気を強めてユーリスの腕に縋り付いた少女の目は揺らがなかった。悲壮を帯びた表情の中でも、彼女は常に誰も底まで折りきれないような意地を瞳に宿していると思う。

「お願いユーリス、私がどんなことをされていても助けになんて来ないで。王都には優しい人たちだって沢山いた、でもみんな殺された。私を庇って、みんな」

 次第に小さくなる声が彼女が抱える罪の意識を物語っている。

「私、まだ頑張れるから、大丈夫だから……」

 ユーリスは何も言えなかった。最愛の弟を守りたい一心で均衡を保っている彼女を否定することなど出来ない。生きる意味、成し遂げるべき使命を取り上げれば、彼女を天から吊り下げる糸は簡単に切れてしまう。下手な慰めの言葉ではフローズを傷つける、だからと言って黙ってただ項垂れる様を見るしかできないのは、心が伽藍になった心地がして息苦しい。

 それでも何とか言葉を探していたが徒労に終わった。ざわめきに気づいたのはフローズが扉の方を振り返ってからだった。廊下から聞こえる怒号はくぐもっていたが、彼女はごくりと息を呑む。

「スコールだわ」

 一瞬頬がひくついた。なぜ彼が、という疑念はすぐに消える。王宮での狼の如き眼光を忘れるわけがない。

「駄目よ、何をされるか分からないわ」

 フローズの制止をよそに、彼女を背に隠して僅かに扉を開ける。隙から見えた廊下の先にいたのはまず野次馬の軍人たち。その視線の先には刀を抜いて歯を食いしばり息を荒げているスコールがいた。そして彼と対峙するのは――。

「なんでゲーレが……」

 凛とした佇まいの、炎と硝煙の臭いがするあの女軍人だった。姿勢こそ正してはいるが手を腰に帯びた剣にかけている。ゲーレはスコールを睨みつけてはいたが嫌悪から来るものではなさそうで、額の汗に前髪が張り付いていた。

「私は君が心配なんだ。あの薬を亜種が使えばどうなるかぐらい分かっているだろう。待っているのは破滅だぞ」

「知ったことか、私は貴女のただ清いだけの正義に応える気など毛頭ない!」

 諭しの言葉にスコールは咆哮で返した。柄を握りしめすぎているのか腕全体が震えている。歯の隙を呼吸が通り抜ける音が耳を澄まさずとも聞こえた。

「君の力は確かに地上にとって不可欠だ。少々の無茶も必要かもしれないが君のそれは度を越している。終戦まで君の体が保つかどうか……」

「承知の上だ! 己の身を顧みる暇など必要ない、理想のために命を差し出さねばならぬなら心の臓だろうとこの手で抉り取ってやる!」

 あの時と同じだ。思わず目を細めてしまうような、恐ろしいまでの空気の震え。耳にしたみなが狼狽えてしまうような、清すぎる憤怒。スコールにとっては相手が誰であろうと些細なことなのだろう。自らの障害となるものに温情など与えるだけ無駄なのだと、彼の狼の双眼が吠え続けている。

 スコールが大きく息を吸った。ゲーレが僅かに身構えたのが見えたが、彼はそのまま静かに喋り切る。

「私にフレキの影を重ねているというのならそれは貴女のエゴに過ぎない」

 ゲーレの凛々しいばかりの瞳が明らかに動揺を宿した。四肢が強張っている、唇がわなないている、頬を汗が伝っている。ゲーレはいかにも軍人らしい毅然とした人物。ほんの少し話しただけでそう思い込んでしまっていたユーリスだったが、スコールのたった一言で彼女が今まで纏っていたものが瓦解した。

 ユーリスは傍らのフローズに目で問うたが、彼女は目をそらしただけだった。

「……私はっ――!」

 ゲーレが声を荒げたその時だった。辺りを一斉に警報音が包み込む。西部の第八都市ウトパラの方向、エリア70から90にかけて防衛ライン上から敵影を観測。居住可能区域到達まで約二十分。

 野次馬たちが今までのことなどなかったかのように散り散りに去っていく。スコールは剣を構え俯いたままで通信機の警告を聞いていたが、呼吸がさらに激しくなっていて顔色も血の気がないようだった。

「……私だ。すぐに配置に付く。第三隊はお前に任せる。防衛ラインの隊員には通常通り区民の誘導を」

 先に動いたのはゲーレだった。忙しなく指示を出しながらも、彼女は動かないスコールを一瞥して、むず痒い顔でその場を後にする。スコールは彼女が去ってからようやく通信機に手をかけたが、その身体は瑠璃の壁にもたれかかるようにして崩れた。ユーリスは咄嗟に扉を開け放とうとしたがフローズに服を引っ張られて後ろに倒れ込む。

「だめ、行っちゃだめよ」

「でもあいつ酷い顔色だぞ!」

「駄目ったら駄目!」

 フローズが小声で怒鳴った。扉の隙からスコールがよろけながらも壁に手を付きながら立ち上がるのが見える。彼が視界から外れてからも、ユーリスの右目は通信機に話しかける姿を捉えていた。

「殿下……殿下、どこにいらっしゃるのですか……」

 あんな状態でも戦うと言い切るのだろう。薬物に頼ってでも前線に立つ、それはもはや執着というより狂気の域だ。相棒のヴィトニルを探して彼がようやく廊下から消えた時、ユーリスは床に仰向けで倒れ込んだまま手で顔を覆った。

「……大丈夫?」

「大丈夫なわけない……」

 フローズは押し黙った。きっと、ユーリスは今まで通りに答えると思っていたのだろう。

 きっと戻れるはずだと信じているんだ。

 遠雷が聞こえる中で呟いた彼は微笑んでいた。あれは自信の表れだった、同時に彼を駆り立てる全てであって、最後の希望だった。

「スコールの時間はあの日で止まってる」

 十五年前の魔女による大規模襲撃。ユーリスが王都を訪れていたあの忌まわしき落日の時。

「全部俺のせいなんだよ、全部……」

 力ない、喉の鳴るような笑い声が漏れた。サイレンは止んだ。軍人たちの靴音も。

 どこに立っていればいいのかが導き出せない。答えが出たとして、この許されざる両の足で、立っていられるのか。

 痛いほどの静寂の中でユーリスは涙が溢れるのをすんでの所で堪えた。だが傍に座りこむ少女には、惨めな声の震えを気づかれてしまったかもしれない。

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