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02-3 遠雷が聞こえる

 ユーリスとフローズが施設の床に転がり着地した瞬間、黒い根に濃い桃色のネオン光が線を引いて浮かび上がった。根の先端が持ち上がり、目玉のようなネオン球を瞬かせ、二人に向かって仕組みも不明な光線を放つ。ぐりんと動く一つ目、背骨のように無数の突起がついた形状、ぬらりとした金属の光沢が一層おぞましい。
 入り乱れる光線はユーリスの外套を掠め焦がしたが、彼にとっては慣れたことで、ネオン光の走る装甲の僅かな隙間に剣を突き立て刃を返すと、案外簡単に根は千切れた。どす黒いオイルが血のように吹き出してユーリスの外套を汚していく。フローズもすばしこく走り回っては装甲の隙を的確に突いていた。分断を四、五度繰り返せば、根は地に叩きつけられてみみずのように蠢くのみになったが、すぐ最初に切った根が新たな先端を構築して起動音を立てた。
「一分もせず再生するわね。早く片付けないと消耗する一方よ」
「核を壊さないことには終わらない。もっと広い範囲が見える場所へ行こう」
 再び光線の甲高い発射音が響き渡る。床が焼ける臭いは閉鎖空間にすぐ充満した。置き去りにされたアパレルショップや玩具屋、ゲームセンターは根によって破壊し尽くされ、暗さも相まって不気味だ。
 フローズについて吹き抜け構造になったすぐ横の廊下を走ると、抜けた天井からやっとまともな光を得られる。根がずるずると這い二人を追いかけてくる音が焦燥を煽る中、根の中を走り回っているはずの核を探す。床に張り巡らされた根さえ不規則に動くせいで足場は悪く、頭の中では「戦え」と繰り返す女の声がサイレンのように鳴り響いたままだ。
『あの本体、やっぱり人の形になるように根を寄せ集めただけみたいだぞ。丸まってるというか絡まってるというか……』
 金属と金属のぶつかる音が聞こえる階下から、ヴィトニルが通信を繋いできた。
「つまり本体じゃないってこと?」
『人型から出ている根も他の根と同じだ。つまるところは根の集合体だから移動もするし攻撃こそ激しいが、フェイクの可能性がある』
 スコールも至極冷静に話してはいるが、淡々とした声の向こうでは五階とは比べ物にならないほど光線の音がひっきりなしに続いている。
「……核と本体を繋ぐ根を切り離せば止まる?」
「本体が偽物だとしたら、短く分断して核を追い込んでもそこでまた再生する。試してみてもいいけど、モノの弱点が核なのには違いないから、核の破壊に専念したほうが確実だ」
 吹き抜けをつたって四階へと飛び下りると、廊下の先の広場に根が巻き付いたような異物があった。追いかけて下りてきたフローズもあれがゲートだと分かったようで目と目が合う。二人はひたすらに視界の広い廊下や広場を走っていたが、根の追跡は止まらず段々と頬や腕、腿に傷が増えていった。あちこちに焼けるような痛みが走る。すぐ横を走るフローズも歯を食いしばっていたが、その表情は鬼気迫るものだった。底知れぬ意地によって驚異を薙ぎ払う彼女に、ユーリスは思わず「大丈夫か」という言葉を飲み込む。
 追いかけてくる根が減っては増えるのを繰り返す中、吹き抜けを挟んだ向こうの廊下を見やると、壁に張り付く根の中に、下方へと素早く動く小さな光をついに見つけた。
「核を見つけた! やっぱり根と根を移動してる!」
『狙えそうか?』
 今度はスコールが通信を飛ばしてくる。核はじぐざぐに走り回って三階へと下りていった。
「難しくてもやるしかない!」
 ふと後ろを振り向くと、背後に迫る根は二本になっていた。廊下の奥の方にはびたびたとのたうち回る根もあったが、再生にはまだ数十秒あるはずだ。ユーリスは踏み出した足を反転させ、フローズが声を上げるのも聞かずに根の懐に飛び込んだ。一瞬ユーリスの姿を見失った根が先端をぎゅるぎゅると回転させている間に、一本目の根本を切り捨てる。二本目には照準を合わせられただろうが、側面を力一杯蹴り飛ばしそのまま装甲の隙を剣先で抉った。ユーリスは崩れ落ちる根を潜り抜けて、すぐ先にいたフローズの手を掴み文具屋と思しき店の角を曲がった。
「動いちゃ駄目だ。あれで撒けたはずだから」
 動体感知型はその特性ゆえに、視界の範囲にいても動かないものには反応しない。近距離なら位置を予測して攻撃してくるが、一定の距離をあけて物陰に隠れられれば、追っては来るが巡回体制に入り攻撃を仕掛けてこなくなる。今までモノばかりを相手にしてきたユーリスはそれなりの攻略方法を見出していた。
 壁に背を預け息を潜める。再生を終えて角を曲がってきた根は二本だった。速度を落とし地を這い彷徨う音がやけに大きく聞こえたが、先端を揺れ動かしながらも二人の姿を見つけることはなく、すぐ前を通り過ぎていった。心臓の律動まで見抜くほど高性能ではない機体なのが救いだ。
 根が吹き抜けの方へと曲がるのを見送って、フローズは息をついた。
「核は下へ行ったのよね? なら私は四階と三階を繋ぐ根を切るわ。そうすれば移動範囲は狭まるし、ゲートもすぐに狙える。あなたは真ん中の三階で待ち伏せて上がって来たところを叩けばいい」
「でも一人じゃ危ない」
 フローズはまた怪訝な顔をしている。彼女からは呆れが見て取れたが、けれども微かに笑ったようだった。
「心配性ね……言ったじゃない。あなたの予想を超える自信はあるって」
 根の群れの死角を縫って、まだ崩落していないエスカレーターへと駆け抜ける背中。彼女はまだ幼くとも軍人なのだと嫌でも分かった。根が他所を向いているうちにユーリスは階下の手すりに飛び乗る。やけに静かになった三階につくと、ちょうどスコールがこちらに向かって走ってきていて、「来い」という彼の言葉に従い後を追う。振り返るとばらばらになった無数の根が倒れ伏していた。
「本体は二階にいる。動きは遅いが二、三分もあれば一階分は移動できるらしい。俺が足止めするから、お前は殿下が言っていた通りここで核が来るまで待て」
 動かなければ根も勘付かないであろう物陰に案内される。スコールは刀の状態を確かめてすぐに吹き抜けへ走ろうとしていたが、ユーリスが違和に気づかないわけもなかった。
「ヴィトニルは?」
 一緒にいるはずの少年がどこにも見当たらない。スコールは言われて初めて気づいたような顔をしたが、焦る素振りも見せずそのまま二階へと飛び降りていく。亜種四人で挑んで一人帰らない、そんなヴィトニルの言葉が脳裏を掠め寒気がした。
「おい、探しに行ったほうがいいって!」
『あいつなら大丈夫だろう』
「根拠もないことを……!」
『あるさ』
 通信が途絶した。再び階下から激しい音が聞こえ始める。スコールにその気がないのなら、核が来るまでに自分だけでもヴィトニルを探すべきだとは思ったが、壁の向こうでは根が再生する音がしていて息を呑むしかない。
 床下、恐らくは二階の壁を這っている核が透視で視え始めるまで三分もしなかっただろうが、ひどく長い時間が経ったように思える。ひたすらに妙な動きをする核を目で追っていたが、募るのは勝利の確信ではなく焦燥だった。普通のモノであれば配線も然程複雑ではなく、規則性を見破らずとも核を狙うのは容易い。だがこのモノは建物一棟を覆えるほどに巨大で、短距離で核が移動可能な範囲が広すぎる。こうなればともかく核を狙って攻撃する他ないが、無数の手数をほぼ常時展開してくる敵相手にはそれも難しいだろう。一層激しさを増す階上と階下の物音、ヴィトニルからの応答は全くない。しばらく微動だにしていないのに、心臓の鼓動がやたらと早くなって、胸の奥が冷たくなっていく。
「お困りのようだね、そこな青年」
 突然の聞き慣れない声に肩が跳ねた。声の先にはひょろ長い背丈の人影があった。割れた窓からの逆光や深く被られたフードでよくは見えないが、歯を見せてにたりと笑う顔は男とも女ともつかない。だが明らかに見知った人物ではなかった。
「声を上げるなよ。あいつら、耳は悪いけど大声を出せばさすがに反応するぞ」
「……魔女だな」
 ユーリスはそう口にする前、開いていた通信を咄嗟に遮断した。謎の人物はユーリスを攻撃してくるわけでもなく、モノの特性を知っているかのように全く動かない。余裕ぶった振る舞い、纏う雰囲気も人ではない。だが敵意も感じないのは妙だった。現に、今までうるさいほど同じ文言を繰り返していた脳内の女の声も、この魔女を前にしてからだんまりを決め込んでいる。
「君たちを殺しに来たわけじゃない。個人的な用事で地上に来ていたんだが……そうだ、この際人間でも構わない。君、リュカオンという魔女を知らないかな。長い金髪で、二丁の銃を持った魔女なんだけど」
「……いいや」
「そりゃあ残念だ。先日の戦闘から行方が知れなくてね」
 何から何まで真意の汲み取れない相手だった。魔女だから女性なのだろうが、人によっては男のようにも聞こえるであろう声。魔女はユーリスの心を見透かしているかのように、くくと喉を鳴らす。
「でも無駄足ではなかったかな。面白いものを見せてくれた君たちにいいことを教えてあげよう」
 魔女は初めて腕を動かし、細い指でジェスチャーをしてみせる。遠くの方で根が単調な電子音を立てた。
「焦りは禁物だ、まず落ち着いて正常な思考を取り戻せ。いいかい、このモノの核には規則性がある。最初に左に曲がった後、次の角を三つ無視して右に曲がる。その後は二つ無視して左に、次は一つ無視して右に、そして次の角はすぐ左に……たったこれだけを繰り返す単純な仕組みだよ」
「何が目的だ」
「人間にも君みたいな変人がいるように、魔女にもいるのさ」
 その時、魔女の背後から差していた陽光が遮られた。数本の根のシルエットが蠢くが、敵味方の区別がつかないのか最初に魔女に狙いを定めて突進していく。だが魔女は近づいてきた根を片足で思いきり蹴り飛ばした。根は文字通り木っ端微塵に吹き飛んでいて、その様はただ蹴られた衝撃によるものには見えなかった。
「飼い主の友人の顔ぐらい覚えろよ。全く、とびきり頭が悪いな!」
 魔女は周囲の根を鉄塊に変えてしまってから、フードを脱いで場に不釣り合いな笑顔をユーリスに投げる。短い緑がかった黒髪、深藍の涼しい吊目を細めて彼女は手を振った。
「じゃあ端くれくん、今日のところはこれで。邪魔しないように別のゲートで帰るからさ。……命が惜しいなら、あまり悪魔の怒りを買わないようにね」
 手をひらひらさせて窓から飛び降りていった彼女を隠すかのように、また根がまた光を遮ってやってくる。
「はた迷惑な奴だな……!」
 ユーリスは核が三階に着いたのを確かめて、根が追ってくるのも構わず一直線に走った。あの魔女の助言が嘘か真かは見てみないと分からないが、どうせ自分では答えが出せなかったのならこの際頼ってやろうじゃないかという気になっていた。
 床に空いた一階まで貫くほど大きな穴を飛び越して核を見据える。濃い桃色のネオン光は相も変わらず根の配線を頻繁に曲がって走り回っている。ユーリスは追ってきた根を振り返りざまに一本切り落とし、もう一本を引っ掴んで床に叩きつけた。床が揺れるほどの衝撃が周囲に伝わって、また現れた根がエネルギーを充填する音が聞こえる。ユーリスが自分の外套の端を持ってわざと大きく翻し、動体を誤認して布だけを撃ち抜いた根の元を切り離した。
 じっと見ていると核は本当に魔女の言った通りに動いているようだった。なぜ彼女が自軍の兵器の弱点を明かしたのか。変人だからと言い訳していたものの、道化じみた彼女の考えを暴こうとするだけ無駄かもしれなかった。だが生死を賭けた場だからこそ、藁にもすがる思いで彼女の言葉を復唱する。根の猛攻を掻い潜って核とすれ違おうとした時、進行方向を予測し根の隙間に剣先を突き立てた。
 外した、と思ったと同時に突然視界の上下が反転して、圧迫された喉から変な音が鳴る。一本の根が足に巻き付いてユーリスを逆さに持ち上げていた。身動きが取れないと一気に不利になる相手だ。ユーリスは勢いよく体を起こして足に巻き付いた根に剣を刺し抉るように掻き切る。もう一本の根が蠢いて脇腹を撃ち抜かれくぐもった悲鳴が出るが、着地と同時に痛みを振り切るように走った。
 フローズはしっかりと四階と三階を繋ぐ根を切り落としているようで、核は四階へのルートを取らず、また二階へ戻ろうとしている。
「次の角を三つ無視して右、二つ無視して左、一つ無視して右……」
  腹の焼けるような痛みを呪文のように唱える文言で誤魔化し、核の進路に先回りする。核に二階に戻られてしまえば一気にこちら側が不利になる。スコールの援護があったとしても人型のいる二階で核を狙うのは厳しい。だからといって三階に戻ってくるのを待てば全員の体力が持たない。逃してなるものかと、ユーリスは核が移動する先の根を切った。すると思った通りに核はすぐに来た道を引き返す。その動きは行く道を再計算したがための規則のリセットによって明白だった。歯を食いしばったまま、自然と口角が釣り上がり安堵の息を吐く。
「右へ行くんだろう、分かってるさ!」
 思わず叫んだ通り、核が右へ曲がり次の角へと進もうとしたところを迷いなく、正確に貫いた。核の光が点滅し消滅した途端、根全体に浮かんでいたネオン光が波が引くように消えていく。光を失った根は糸の切れた操り人形のように次々と地に倒れ込んだ。
『ゲートの破壊に成功したわ!』
 今までの激闘を嘘にさえしてしまいそうな静寂を、フローズからの通信が破る。モノの動きが止まったことで、ゲートを覆っていた根も剥がれたのだろう。彼女の声は息こそ切れているが心なしか嬉々としていた。
 その時だった。小石がぱらぱらと落ちる音を聞いてすぐ、音は何倍にも大きくなって、驚いて後ろを見上げるとユーリスのすぐ横の天井が抜けるのが、バランスを崩して瓦礫と共に落下する少女が目に入った。
「フローズ!」
 見開かれた彼女の目を見た時にはもう駆け出していた。天井が抜けた場所はユーリスが先程飛び越えた穴が空いている場所だ。落ちきれば一階まで一気に落ちてしまう。ユーリスは一、二歩でフローズのところまで飛び腕を掴んで抱きとめて、今までいた三階の床を咄嗟に掴むが、ひび割れたコンクリートが二人分の体重を支えられるわけもなく。
「しまっ……」
 フローズと一緒に声を上げて、そのままどうすることも出来ず、ただ落ちた。背に受けた衝撃は大きく気が遠くなるが、幸いすぐに意識は鮮明になる。一階は根によって床下まで破壊されていて、芽吹いた花や割れた窓から入り込んできた草の蔦で覆われていた。身体全体が痛むことに変わりはないが、コンクリートの床のままだったらと思うとぞっとする。
 目を開くと最上階まで穴が空いていたのか、恨めしいほど眩しい青空があった。流れる雲を呆けて見ていると、フローズが顔を覗き込んでくる。ああ、そうだ。彼女を守って自分が先に落ちるように背を下にしたから、彼女に怪我がなければいいのだが。
 フローズはしばらく口をわなわなさせていたが、急に堪えきれないといった表情で大きな笑い声を上げた。ユーリスは寝っ転がったまま、彼女が初めて見せる顔に口をぽかんと開けていた。
「ああ、おかしい! 私は亜種なんだから、こんなところから落ちるぐらい全然平気よ!」
「え? ……そうか、思って見ればそうかも……」
 確かに、彼女なら自分よりも上手くこの状況に対応できたのではないかとユーリスには思えた。運動神経はフローズのほうがいいに決まっているし、高所から落ちて怪我した亜種なんて聞いたことがない。フローズは笑いすぎて涙まで出てきてしまったのか、目元を擦って未だ引き笑いながら続ける。
「スコールから聞いていた通り、本当にお人好しなのね。私が花を踏まないようにしていたら、つられて自分も避けてしまうような人」
 彼女が差し出した小さな手で体を起こす。フローズはきちんと座り直してお辞儀をした。傷だらけで血の滲む頬は痛々しく、緩やかな癖毛にもモノのオイルがこびりついていたが、それでも陽光によって真白に輝いていて、光背さえ見えるような気がした。
「教会でちゃんと挨拶ができなかったこと、嫌な態度を取ってしまったこと、謝ります。疑ってしまってごめんなさい。でも今日一緒に戦ってみて……大した話もしていないけれど、あなたを信じてみてもいいかなって、そう思えました」
 魔女の子と呼ばれた少女は本当に、人より人らしい人だった。生まれだけで虐げられてきた少女は、少しばつが悪そうに眉を下げて、それでも気丈な声で一つ一つ言葉を紡いだ。
「私はフローズ・ルヴトー、地上王家の第五王女。でもそんな立場はあってないようなものです。だからどうぞ遠慮なんてしないでね。笑ってしまうぐらいに優しいあなたとなら、良いペアになれる気がするの」
 それでもユーリスはふと思う。もう一度差し出された手を握っていいのかが分からなくなってしまっていた。自分にこの少女の隣に立って戦う資格があるのか、問うても答えが出ない。だからこそ、微笑んで手を握るしかない。「よろしく」の一言も言えない自分のほうが余程薄情だ。
 上を見るとスコールが二階からこちらを見下ろしていた。彼はまた眉間を摘んでいたが、すぐに肩をすくめて引っ込む。ユーリスは彼の口元に笑みが見えたことが何だか嬉しくて、だがひどく後ろめたい気持ちを拭いきれず、少し呼吸が震えたのだった。

 

 ヴィトニルは案外簡単に見つかった。フローズと一緒にあたふたとショッピングモールの内部と周辺を走り回っていたのだが、五分もせずにスコールから見つけたという連絡が入って、一気に肩から力が抜けた。
「どこに行ってたの! 離れるならちゃんと誰かに伝えてからにするようにって教わったでしょう!」
「だ、大丈夫ですよ、あちこち擦りむいたぐらいですから」
 そういう問題じゃない、とフローズは泣いて怒って、弟を抱きしめていた。ヴィトニルが言う通り彼に目立った怪我はなく、合流した時は心外だとでも言うように仏頂面だった。姉があまりにも泣いているからさすがに悪いと思ったのか、口を尖らせてごめんなさいと呟いている。ユーリスが大事にならなくて良かったという思いで姉の腕の中で固まっているヴィトニルを見ていると、彼はまた不機嫌そうな顔に戻る。
「なんだよ、別に逃げたわけじゃないぞ! 戦略的撤退だ!」
「それを逃げと言うんですよ、殿下」
「うるさいな! お前も半笑いで見てるんじゃない!」
 指を差されてユーリスは余計に笑ってしまった。それからもしばらくヴィトニルの文句が続きそうな勢いだったが、彼は急に口を閉ざして、入道雲が広がってきた北の方角に顔を向けた。
「どうしたの?」
「子供が泣いてる」
 ユーリスも北を向いて耳を澄ませたが、冷たくなってきた風の音がするばかりだった。だがスコールは靴底を鳴らし、ユーリスに目配せをして北へと歩き出す。
「お願い。私たちが助けてはいけないの」
 魔女の子だから、と続けたフローズからは歯痒さが滲み出ていた。ユーリスはただただ頷いて、スコールに追いつくよう走った。
 スコールは攻撃の激しいモノの人型部分と交戦していたためか、ユーリスたちよりも傷が多くあちこちに痛々しいほど血がこびりついている。彼は痛いと言いはしなかったが僅かに足を引きずっていた。ユーリスは気遣って声をかけはしたが、問題ないの一点張りだった。
 最初こそ何も聞こえなかったが、荒地を一歩一歩進むごとに少しずつ泣き声が聞こえ始め大きくなっていく。まだ小さな子供の声だった。スコールが立ち止まった場所は小さな家屋が集合している地区で、その殆どは屋根や柱が崩れてしまって人が住めないものとなってしまっていた。熱された空気に腐敗臭が充満している。そこかしこに人が倒れていて、生死など一目瞭然だった。
 生きている人が誰もいない。凄惨な住宅跡地を歩き回っていると、家屋の物陰の下でまだ十歳ぐらいの少女が、腕をいっぱいに広げてもっと小さな子供を抱きあやしているのを見つける。薄いワンピースの裾はぼろぼろで、身体のあちこちに瘡蓋が出来ていた。少女はユーリスとスコールを目に留めると驚いた顔をしたが、スコールの服を見て「軍人さん」と小さく零した。
「親はいるか」
 スコールの声は出来る限りの優しいものだった。女の子はふるふると首を振って、くりんとした大きい瞳に涙を溜め始めた。堪らえようと口を震えさせていたが、すぐに堰が切れて大声で泣き叫ぶ。
「あたしがっ、あたしが帰ってきた時には、もうおうちが壊れてて……マヤだけ、マヤだけが……」
   少女は腕の中で泣いている妹と思しき子供の名を繰り返し、わんわんと泣き続けた。スコールが言うには、この辺りは一週間ほど前に魔女が襲撃した区域に一致するそうだった。ということは、この少女は妹と一緒に死体だらけの故郷で暫くの間過ごしていたことになる。
「軍が見回りに来たはずだろう。なぜ保護してもらわなかった」
「だって、だってお母さんとお父さん、生きてるかもって……でも……」
 少女が見やった先には崩れた民家があった。散乱した煉瓦片と地面は赤黒く染められていて、少女は腕の中の妹と共に一層大きく泣き喚く。
 スコールがフローズとヴィトニルに二人の子供を保護した、と通信を飛ばしている間も、ユーリスは胸が締め付けられる思いに支配されていた。自分がいない間に何もかもが変わってしまったことへの絶望。何もできなかった己への嫌悪。少女を慰める言葉は見つかるはずだったのに、何一つ浮かんでは来なかった。ユーリスはあの頃の自分に慰めの言葉などかけられた試しがなかったから。
 夕暮れまでにはエリア31の拠点に戻れそうだった。ユーリスとスコールは奇跡的に生き延びた二人の子供を連れて、日が傾きかける中を歩いていく。今まで安全の保証されない場所で気を張り詰めていたからか、子供たちは二人の背で寝息を立てている。
「あいつらは元気か」
 不意にスコールが尋ねてきた。あいつら、というのはユーリスとスコールの共通の知人のことだろう。二人がかつて住んでいた集落は小さかったが、代わりに結束は固く子供たちはみな仲が良かった。ユーリスは真実を話すか、嘘で塗り固めるかを悩む。どちらもスコールのためにならないと分かっていても「ああ」と呟いた。
「相変わらず、お前は嘘を吐くのが下手だな」
 きっとそう返されるだろうと分かってはいたのだ。嘘は見抜かれるものであって、ユーリスは幼馴染たちの中でも特に嘘を吐くのに向いてないだとか、散々なことを言われた記憶がある。もう戻れない、昔の話だ。
「守ったつもりでいたのに、何も守れていない」
 横目で見た彼は、目を閉じて口の端に乾いた笑いをたたえていた。
「俺はどうしたらよかったんだろうな……」
「……俺も分からないんだ」
 風が強くなってくる。鳥も虫も泣くのをやめて、じっと息を潜めている。
「過去に戻れたらどんなにいいだろうって、ずっと思ってる」
 俺は、とスコールが口を開いて、一度黙った。
「きっと戻れるはずだと信じているんだ」
 遠くの空から低い轟音がした。雨がぽつぽつと地面を濡らす前に、帰ろう、とユーリスは言葉を絞り出した。夢を見ている彼は、スコールの言葉を夢物語と笑うことはない。だが叶うかどうかを問われたなら――叶わないから、ユーリスは誰かが許しても自分が許さない罪を背負って、永遠に許しを請い生きていくのだと決めていた。
 王都の方角には相も変わらず巨塔が聳え立っている。天辺に鎮座し輝く極彩の宝石。お前が神だというのならば、どうか背で眠るこの子らが共に生き続けられるよう、運命でも何でも捻じ曲げてくれと、ユーリスは願った。

 

 
 エリア31への駐屯は一週間で終わった。モノとゲートの破壊を成し遂げても、基地の軍人たちは祝杯の一つもあげようとはしなかった。軍でさえ手間取っていた相手をたったの一日で片付けてしまう、ユーリスの異能はより化け物じみていると、基地内部でも囁かれているのが聞こえてきたものだ。魔女の襲撃は一度もなく、帰還命令が発されると共に四人は王都へと戻った。保護した子供たちは一足先に王都へと送られていったが、その後どうなるかまではユーリスたちには知らされなかった。
 しばらく悪天候が続いていて、雨が止んでは降りを繰り返している。ユーリスは雨がぬかるみきった地面をしとしとと叩く中、王都を出て中央区の住処へと向かった。雨のせいか身体中の傷の痛みがぶり返していて、何度も立ち止まってしまう。
 人一人寄り付かないような街の外れにある小屋で、蝋燭の光が微かに揺らいでいた。ドアノブを回すと、きい、と錆びついたような耳障りな音がして、中の人物は火に照らされた顔を見せる。
 この世のものとは思えないほど美しい銀髪が、灯りの揺らぎの中で浮かんでいた。火によって一層色を濃くした焼け付くような紅い瞳が、じっとユーリスを見据える。彼の頬や腕にガーゼが見えたのが心配らしく、椅子に座ったままの女性は唇を動かした。
「あなたも酷い怪我ね」
「治りかけだから大丈夫だよ」
 女性はふうと息をついて、目の前のベッドに視線を落とした。
「具合は……」
「容態は安定しているわ。出血は酷かったけれど、予想以上に治癒力が高い」
 傍らの台に置かれた乳鉢やガーゼが、ネメアの持ち込んだ鞄の中に直されていく。代々、薬の調合師を生業とする一族の生まれであるネメアは、医療が発達してからも薬草や動物の一部といった材料を使う一族代々の手法を守り通していた。ユーリスも子供の頃から彼女の調合した薬に何度も世話になったが、不思議なことによく効くのだ。時代錯誤と何度言われようと、大っぴらに商売ができなくなってしまってからも、今も古くからの知人の伝を使って細々と生計を立てているらしい。ネメアが絶えず気にしている横のベッドには金髪の女性が横たわっていて、じっと目を瞑ったままだった。
「……本当に、また会えるなんて思ってなかった。あなたからの知らせを受けた時は嘘なんじゃないかって」
 ネメアは眠っている女の頬に手を当てて、懐かしげな目を滲ませている。ユーリスはスコールと再会したあの日、この住処に着いた時に血の臭いを嗅ぎつけた。血の臭いなんて今やどこでもするというのに、なぜか必死になって辺りを探し回って、この女性が血塗れで倒れているのを見つけたのだ。
 長い金髪、その傍らに落ちていた二丁の拳銃。未だ眠るこの女は、ユーリスがゲート破壊作戦において遭遇した魔女が探していた、魔女だった。
「いざ目の辺りにしても不思議な話よね。私が王都で会った時と全く容姿が変わっていない。あれから二十四年も経ったのに……叔母さんが生きていたら会わせてあげたかった」
 ネメアが幼い頃からずっと口にしていた、昔に出会ったという魔女の特徴をユーリスは覚えていて、この大怪我をした魔女をひと目見た時に確信したのだ。近くに住むネメアに伝えると彼女はすぐに飛んできて、ユーリスがエリア31にいる間もずっと介抱してくれていた。
 不意に眠っていた魔女の瞼が震えて、呻き声が漏れる。ネメアは驚いて手を引っ込め、台に置かれていた紙切れをユーリスに寄越した。
「私はもう帰るわ。必要な薬はここにおいていくから、このメモの通りに使って」「話さなくていいのか?」
「いいの。……もし声を聞いたら、泣いてしまいそうだから」
 ネメアはくるくると巻いた癖毛を揺らして急ぎ足で家を出ようとしたが、扉の前でユーリスに頭を下げた。
「お願い、悪いようにはしないであげて。この人の優しさは誰より私が知っているの」
 だからどうか、と重ねて請うたネメアは、返事も聞かずに雨の降る夜道を走っていった。君の弟に会えた、とユーリスは最後まで言えないままその場に立ち尽くしていると、ごそごそと毛布が擦れる音がして、目覚めた魔女がゆっくり身体を起こした。彼女はユーリスが横に立っているのを見て、小さく悲鳴を上げて固まってしまった。
「大丈夫だ、何もしない」
 ユーリスは腰に帯びていた剣を後ろの壁に立てかけて、両手を上げる。魔女はしばらく怯えて呼吸を荒くしていたが、一度息を大きく吸った。
「……どうして助けたの」
「あんな酷い怪我をしてる人を放っておけない」
「女が倒れてたら魔女かもしれないって、人間は疑わないの?」
「君が魔女だということは初めから分かってたよ」
「だったらなぜ……」
「君が生きるのを願っている人がいる」
 彼女はそれきり黙った。自分に施された手当の跡をじっと見て、頬やら腕やらをしきりに触って確かめている。一週間で治るような怪我ではないはずなのに大して痛がっている様子もない。知ってはいたが魔女の治癒力は驚異的だ。
「何だか懐かしい匂いがするわ。このツンとした薬の臭い、ずっと前に友達が作ってくれたものに似ている……」
 魔女はそこでユーリスを一瞥して、悟ったようにまた黙る。
「地下に帰るなら、近くのゲートを教えるけど」
「……帰りたくないって言ったら笑う?」
 眉を下げて、彼女は力なく笑った。視線を落として彼女は続ける
「帰りたくないの。女王陛下は……ヘカテーはもう偉大なる王でも何でもない。ただの暴君よ。人間は敵なんかじゃない、殺したくなんてない。ヘカテーにも、彼女に従う魔女たちにも賛同できない。自分の意思を曲げてまで地下にいたくないの」
 魔女は長い髪を肩から零しながらベッドから抜け出てくる。全てを諦観したような鮮やかな緑の瞳が、蝋燭の火に照らされていた。
「ごめんなさい、もう出ていくわ。あなたに迷惑はかけられないから」
「行くあてはあるのか」
「…………」
「地上で魔女が一人で行動するのは危険だ。もし君の顔が軍に割れていたとしたら……まだ完全に傷が癒えてない君が彼らを退けられるとは思えない」
 魔女をここまで追い詰められるとしたら、恐らく亜種だろう。討伐の一歩手前で見失い、彼女は逃げ延びることが出来たのか。その亜種がまだ生きているなら間違いなく顔は覚えられているし、軍のデータベースにこの魔女の情報が揃っていても不思議ではない。
「君さえよければここにいたって構わない」
「私は魔女よ。全部演技だったらどうするの。明日にも気が変わってあなたの寝首を掻くかもしれないのに」
「君から僅かでも敵意を感じていたなら、俺だってこんなこと言わない。君が生きるのを願っている人がいる、だからこんな提案をしているんだ」
 ゲート破壊作戦で出会ったあの魔女を前にした時のように、頭の中の女の声は聞こえなかった。命に危険が迫ると語りかけてくる女の声は、今やユーリスの行動の指針にもなっている。この魔女も人間に対する明確な敵意を持っていないようだった。魔女は丸い目を瞬かせてから、急にすとんと腑に落ちたように気を抜いて、ユーリスに微笑みかけた。
「……あなたによく似た人を知っているわ。だからかしら。……ええ、きっと、あなたは本心からそう言ってるんだと思う」
 お言葉に甘えてしまってもいいかしら、と彼女が差し出した手には、最近出来たものではなさそうな細かい傷跡がいくつか残っていた。同じように笑顔で手を差し出してくれたフローズが思い出される。ユーリスはまた逡巡しながらも、細くて少し皮膚の硬い魔女の手を握った。
「私はリュカオン。しがない整備士で、元地下軍属の魔女よ」
 遠雷が響いた。風が強くなり雨が窓を叩き始める。リュカオンが言った、ユーリスによく似た人。彼はその人物が誰なのか検討はついていた。その人に憧れて、頑なに自らの意思を貫いて生きているつもりでもなかなか上手くはいかないものだ。
 隙間風で揺らぎを大きくする灯りの中で、ユーリスは守るべきものが増えすぎた左手をきつく握りしめていた。

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