朱夏の声 (3)
八月ももう半ばを過ぎカレンダーが二十五日を示したが、未だ夏が去る気配はない。やるべきことはさっさと済ませてしまいたい性分なせいで、夏休みの宿題なんてものもとっくに片付けて暇を持て余すばかりだった。あと一週間もしないうちに、今以上に単調な日々が戻ってくる。いっそ蝉にでも生まれればよかった。
真咲は本当に夏休みの間は沖縄にいるらしい。指を怪我してから数日を部屋に閉じこもって怠惰に過ごしたが、それにも飽きて久々に家の周辺を歩き回った日にばったり顔を合わせた。彼女が部屋を借りているアパートは存外近くにあるようだ。外出する度に道端でよく鉢合わせて、加えて外で遊び回っていた兄とも意図せず合流してしまう日もあった。
今日は運悪く三人が揃ってしまっている。こうなると決まってあちこち連れ回されるから嫌なのだ。一日で一番暑い昼に、見慣れた石垣造りの通りを真咲と兄の一歩後ろをただ歩く。このまま踵を返して逃げようかとも思ったが、俺と顔を合わせてかららしくもなく何かを逡巡していた真咲が足を止めて話を切り出したせいで機会を逃した。
「あなたたち、もしかして危ないことしてる?」
不意に言われたせいで問いの意味が掴めない。真咲は特別深刻そうな顔はしておらず、無感情だったせいもある。
「危ないことって……なに?」
「極道の関係者なんじゃないの?」
体が一瞬だけ強張った。彼女は俺に睨まれたことも分かっているだろうが、心を乱した様子はない。隣の真咲を見てただきょとんとしている兄を目線だけで咎めたが、兄が喋ったというのならここまで呆けた顔をするのはおかしい話だ。
「……誰から聞いた」
「泊めてもらってる家のおばさんから。私があなたたちと一緒にいたところを見たんですって」
付き合う相手はよくよく考えたほうがいい、だそうだ。兄がごく平坦な声で当然といったように肯定する。
「そりゃそうだわな。堅気からすれば俺らは腫れ物だし」
「……親父が組まとめてるだけだから。俺もこいつも組に入ってるわけじゃない」
家の事情を知られるのは慣れたもので、驚きはしても今さらきまりは悪くはならない。影で何を言われようが本人が気にしていないのだから、奴らは無駄な感情で損をしているのだと俺は非難を続けている。だが真咲が常人らしい反応をするとは思えなくて、視線だけを彼女に戻すとやはり目も口元も緩んでいた。
「危ないことはしていないの?」
「俺はなんにも。さぶは知らないけど」
「俺だってしてない」
「たまにあっちの人間に会うのを危ないことって言わないならそうかもな」
嫌味ったらしくなく苦笑するのは兄にとっては難しくないのだろう。俺はただ少し兄に眉を顰めただけで、その様子を見て真咲は声を出して笑った。
「おばさんには道を教えてもらっただけって言っておいたわ。だからあなたたちと会ってることはこれから内緒にする。だって私たち、お友達だものね」
友達になった覚えはないが兄にはあるらしい。突っかかりもせず全身で彼女を肯定している。
傍の石垣に咲いた花に目線を逃してその場を凌いだ。また前を歩き始めた明るい声は絶えず、時々話を振られても生返事しか返せなかった。
笑うのが巧い奴ばかりだ。羨ましいわけではない。俺だって作り笑いぐらいは巧いことやれている。だが彼らは俺が笑うために踏む工程をすっ飛ばして、何の苦労もせず――。
損をしていることが哀れなら、俺も誰かから要りもしない同情を寄せられているのかもしれない。
「お兄さん、本当に気ままねえ」
ベンチに座った真咲は空を仰ぎながら足をぶらぶらさせている。行き先を決めかねた彼女は結局馴染みの深い公園を選んだ。
呆れるのも仕方がない。あの後、兄はばったり出くわした二人の友人とどこかへ行ってしまった。兄にとって予定とはひっくり返すものらしい。もともと行く当てもなかったのだから文句を言う筋合いはないが、兄の思いつきの行動と決断の速さを読めた者など見たことがない。
「さぶくんってお休みの日もいつも同じ服ね」
「お前に言われたくない」
返事もせずにかりと笑う。真咲と会うのもこれで十回は超えた。会うといっても偶然顔を合わせるだけで、その全てが制服姿だった。俺も学生服のシャツとズボンでいることが殆どで、なぜと聞かれても慣れているからとしか言えないぐらい無頓着だった。どうせ何を着たって夏からは逃げられない。
「指の怪我、治ってよかったわね」
一人分の距離を空けて座るその向こうで真咲が笑った。反射的に右手の人差し指を触ったが痛みはなく、かすかな傷跡もこの木漏れ日の中では見えなかった。
「これぐらいの怪我なんてなんともない……」
「そのなんともない怪我でやる気なくしちゃいそうな顔してるのに」
勘の良い奴だとは知っていたが、いざ標的にされると溜息しか出ない。当たったと思えばけらけら笑って相手のことなど気にもしない。兄と同じだ。
真咲は手ぶらで歩き回っていることが多く、今日のようにたまに鞄を持っていると思えば中には本しか入っていない。辺りをぶらつくか本を読むか、その二択しかないのだろうか。彼女が鞄から取り出した本は妙に分厚かった。
「今日は違う本。あんな変な本ばかり読んでるわけじゃないのよ」
何がおかしいのか、真咲は本を広げて笑っている。暗く意味ありげな装丁とタイトルを見る限りは外国の推理小説か何かのようだ。真咲はどこか世間ずれした頭をしているから、内容もこの間の物騒な本と大差ない気がする。
わざわざこんな炎天下で読まなくてもいいだろうに。お互い暇を持て余していると会う度に思う。俺もやることがないまま押し黙って、ただ指の傷跡があるだろう場所を見ていたが、真咲が思い出したように口を開いた。
「昔は自分でも文を書いたりしてたの。別に作家になりたかったわけじゃないけど、お姉ちゃんが褒めてくれたから」
あまりにも予想から外れた言葉に心がすっ転んだような感じがした。
「お姉ちゃん……?」
「あら、言ってなかった? お姉ちゃんがいるって」
真咲はとかく喋り続けている印象しかなく、喋ることは喋りきっていると錯覚していたがそんなはずはない。誰も好き好んで家族のことなど話さないと思い込んでいたせいで間の抜けた声を出してしまった。
「中学生の頃だったかしら、学校の宿題で短いお話を書いたことがあってね。出来上がったものを何度読んでもつまらないような気がしたからお姉ちゃんに見せたんだけど、面白いって言われたの。どうしてかは説明されても分からなかったんだけど、そんなの当たり前よね。血が繋がってるからって感性が一緒なわけないんだから」
懐かしそうに思い出をなぞる真咲は、あの日悪女について語った時のような無邪気な顔をしていた。何度書いても自分が面白くないからやめてしまった、主人公が何者なのか自分でも分からなかった、きれいな世界ばかり書いたせいで惨めになったなどと言う。高名な芸術家が自殺した理由のようだった。
「さぶくんは普通の本を読んでもつまらないって放り投げそうだわ」
「間違ってはいない」
「何冊投げた?」
「……覚えてない」
「でしょうね。面白くもないことなんてしなくていいし、興味ないことをいちいち覚えてなんていられないもの」
共感するような乾いた笑い。真咲は膝の上の本をぱたりと閉じて、問うように薄く笑う。
「気が乗らないことはしなさそうなのに、怖い人たちには会うのね」
本当はこれをずっと聞きたかったのだろう。悪女だなんだと言う奴が興味を持ちそうな世界だ。
「それは……親父が来いってうるさいんだよ」
「断ればいいじゃないの」
「…………」
「お兄さんがいるじゃない。彼なら何にも考えずに付き合いそうだわ」
「さっきの見ただろ。あいつは気まぐれすぎて愛想尽かされてるから、俺が代わりになってる」
その日の一瞬一瞬を生きている兄を思い通りに動かすことなど誰にもできなかった。やりたいことをやりたいうちにやる、今日だって行き当たりばったりで動き回って、突然気を変えてへらっと笑って去っていった。人並みの神経を持たない兄を周りは"考えなし"と嗤い、俺はそう言う奴らを見る度に、まんまと策に嵌ってやがると嗤った。
「腹の中で何考えてるか分からねえ。ちゃらんぽらんに見えてそこらの奴よりずっと賢いし、いちいち計算して動いてやがるんだよ」
「まあ、間違ってはないんでしょうけど。でもお兄さん、計算だらけっていうより、自分のやりたいようにやるにはどうすればいいかってことだけを考えてるだけだと思うの」
「だから、それを計算っていうんだ」
父に見放されることまで計算していた。自分の好きなように生きるために。
「お兄さんのこと、嫌いなの?」
声が暗くなった。異変を感じて隣を見ると、真咲はいつになく真剣な眼差しで。目を逸らせないまま沈黙する。太陽は隠れていないのに背筋が寒くなる。はっきりした答えなど持っていなかった。誤魔化すような言葉をやっとのことで絞り出す。
「……何でそんなこと」
「兄さんとかじゃなくて、あいつって呼んだり名前で呼んでるから……?」
曖昧な予想で首を傾げる様を見ると一気に気が抜けた。今さらそこに疑問を持ってどうするんだと溜め息しか出ない。身体が急に夏の暑さを感じるようになって汗が首を垂れる。
「計算だらけだとかそんな話じゃなかったのかよ……」
「だってさぶくん、初めて会った時からお兄さんに冷たいんだもの。適当にあしらってるというか」
「あいつは真剣に相手するだけ無駄なんだよ。こっちのことは何も考えてねえんだから」
シャツで首周りの汗を拭う。もうただの汗なのか冷や汗なのかも分からなかった。真咲とも馬鹿正直に取り合ってはこちらが振り回されるだけだとやっと気づく。普段あれだけ人を手玉に取って遊んでいるのに、大事なところで思考が違う方へ飛んでしまうようだ。
「……名前で呼び合ってる兄弟なんていくらでもいるだろ。死んでほしいほど嫌いなわけじゃないけど、好きでもないだけだ」
自分に教えるように口にした。きっとそうだと勝手に納得した。俺は兄を忌々しい、ずる賢い奴だと思っていても、決定的な許しがたいものを見つけていない。それを見つけるまでは嫌いになりきれないのだ。足元を見たまま呟いたが、くすくすと笑う声に顔を上げる。真咲は困ったように、安堵したようにひとしきり笑って、俺の怪訝な顔にも気づかなかった。
「ちょっとぐらい仲が悪いほうがかわいいかもね」
「はあ……?」
「私がそう思うだけ!」
真咲は立ち上がって陽の下に躍り出る。その足取りは軽やかで、機嫌がいいようだった。
「私がずっと制服を着てるのはね、お姉ちゃんに似合ってるって言われたからなの」
振り返った彼女は腕を広げて誇らしげに語る。
「制服が似合う真咲でいたいの、時間が止まってほしいと思うぐらいに! ……でもそんな願い叶うはずない。時間が進むから変わることがあるってことも、このままじゃだめだってことも分かってる。だから沖縄に来てるの」
東京の夏より沖縄の夏が好きだから。そう言っていたはずだ。それだけが沖縄に来る理由ではないことは察していた。真咲は時間を止めないためにこの島を訪れている、上手い嘘かも知れないが。
「指の怪我、治ってよかった」
何度も何度も確かめるように繰り返す。陽が翳り、瞳が伽藍に見えて影も一層黒くなる。いつの間にか雲が空を覆い尽くそうとしていた。蝉が次第に鳴くのをやめて、一つ、二つと声が消える。危ないことはなるべくしないほうがいい、そう彼女が言ったが俺は何も答えなかった。俺が決めることではなかったから。
「三十日に東京に帰るの。次の夏もきっと来るから、また話ができると嬉しいわ」
「何が楽しいんだか……」
「だってあなた、他の人が言うほど悪い人じゃないんだもの!」
だから友達なのだと彼女は言う。俺の考えなど気にもせず押し付ける。嫌ではないが嬉しくもない、無難な感情でその場をやり過ごすことに慣れてしまったと思い知らされる。
木陰だった場所から出て空を見ると、もう青は切れ端のようにしか見えなかった。この島には似つかわしくないほど冷たい風が吹き、雨がぽつりと頬に落ちた。風が強くなるのは雷雨の知らせだ。なのに空を仰いで受け入れるように笑った真咲の横顔は、端正だとか純然だとか、そんなものに勝ってしまうほどに気味が悪かった。
遠雷が聞こえる。真咲は一言、帰ろうと言った。指の傷跡が疼いた気がした。
時間が止まってほしいとは思わない。いつも笑みを振りまける人間が死に急ぐ必要はない。夢ぐらい勝手に見ればいい。
早く明日になればいいとも思わない。俺は兄のように利口でも勇敢でもなく、生まれ持った素質など時間が解決してくれるわけもない。明日も明後日も一年後の夏も、自由を掴み取る勇気のない臆病者のままだ。
八月三十日は蝉の声がしなかった。夜明け前から降り続く雨のせいだ。風もない静かな雨で、飛行機も欠航にはならなかっただろう。彼女を見送る義理はなかった。ただ部屋のベッドの上で窓に張り付く雨を見て、そのまま八月最後の日を迎えた。