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01 蝕まれる黄金

 焼け始めた空を何を考えるでもなく眺めていた。今誰かが自分の目を覗き込んだなら、きっと虚ろに見えるだろう。王宮の巨大な石門の近く、古ぼけた物置の屋根上。スコールはいつもこの場所で、日々顔を変える空を呆けたように見つめ人を待っていた。飽きずに空を見上げるのは、砕かれたように倒壊した高層ビルや住居だったものが見るに堪えないせいだ。

 白い花が荒れた大地を雪のように飾っていた。王宮周辺には野生化したクリサンセマムが群生している。溢れるように咲く花々が血で赤く染まるのを何度も見てきた。それがこの国の最期を示そうとも、守りたいものさえ守れるのならば構いはしなかった。

 風が本来の役目を奪われたコンクリートの隙間を縫って流れ込む。その先から現れた足音の主を目にとめ、重い腰を上げて屋根から飛び降りた。

「ソロがこちらで目撃されたそうだ」

 足をつけた地面は今朝方の穏やかな雨で緩んでいた。靴に泥が撥ねたことに気づき一瞬の後悔を感じたが、すぐに払いのけて、自分と目を合わさず脇を通り過ぎた少年を追う。

「奴の行動範囲は西方が中心だったはずでは?」

「こちらで目撃されたのは初めてだ。陛下は奴を捕縛せよと」

 軍にも属さずたった一人で魔女と戦う者がいる、という噂が立ったのはつい三年ほど前で、今では一般人にも囁かれる存在となっていた。騒乱の収束と共に姿を消す彼について、分かっているのは白い外套を着ていること、剣を使うこと、王族や貴族でさえ倒せない機械仕掛けの獣を破壊できること。

「殿下、あなたはただ責務を全うするだけでいい。ソロの件は俺が引き受ける」

 こちらを振り返り睨む赤い瞳は幼さを隠せていない。夕陽を背にし光を含んだ灰の髪は暖かい色をしていたが、言葉は似合わず刺々しかった。

「僕が命じられたんだ。お前が出しゃばることじゃない」

「それは本気で言っているのですか。まさか陛下がご自分に期待しているとお思いで?」

 思わず乾いた笑いが出てしまう。少年は瞼を動かさないままスコールを睨んでいた。

「貴方はこの件に関わるべきではない。それぐらいお分かりでしょう。死ぬまで自身を嘘で塗り固めなければない者が、今までのことは全て嘘だったと告白してどうするんです」

「……勝手にしろ」

 今度は急くように歩くのを見ても気を悪くしているのは明らかだったが、スコールが彼と知り合ってからはこれが常で、血相を変えて掴みかかってこないだけまだましである。対するスコールは感情の乱れなどなく、ただ先を行く小さい背を追った。

 地上の中心都市である中央区の東のはずれが二人の今日の持ち場だった。数年前までは高層ビルが立ち並び都市と呼ぶに相応しい地域だったが、今や割れたガラスや鋼の塊、何ともつかない金属の破片を踏みしめなければ前に進めないほどに荒廃していた。

 魔女は人間の手には負えないほど強大な力を有している。身体能力において人間を超越した存在であり、地上の確固たる戦力であった亜種と呼ばれる人種も、人智を超えた異能を扱う驚異の前では怪力を持つだけのただの人間と化すことのほうが多い。亜種は減少の一途を辿り、比例して戦渦を被る範囲も拡大した。大勢の人間が暮らしていたであろうこの都市も、今は魔女によって人の影まで焼き尽くされ閑散としている。

 二人が目指した鉄塔は焼け崩れながらも支柱は機能を果たしていた。この辺りの警備を任された時は毎度ここでいつ来るかも分からない魔女の姿を探している。空を縫うように突き出た鉄柱を軽々と跳び上れば、陣取っていた烏が空へと追いやられるように飛んでいく。見晴らしはいいが風は強く、夜の冷気がそこまで迫っていた。

「どこを見ても貴族ばかりか。王家も落ちぶれたものだな」

 少し離れた下方に見える他班の亜種に対し、ヴィトニルは吐き捨てる。

「王族はもはや二十もいないでしょう。ガルム家が亜種の大半を占めても仕方がない」

 王族は必ず亜種として生まれ、その力をもって地上を治めてきたが、戦争が貴賤で死をもたらすか否かを決めるわけもない。ヴィトニルは由緒正しき王家の血を引き、例に漏れず亜種だったが、それを誇るような単純な王子ではなかった。事態を重く見た王によって戦力増強のために世界中の亜種を集めて作られた"ガルム"と呼ばれる貴族のことも、王家と天秤にかけて蔑むどころか興味もないらしい。

「もうこの際、王族なんて大層な名前は捨ててしまえばいいものを。いつまでも栄華だの権威だの、くだらない。人間の皮を被った獣の僕らには、お綺麗な食器より地べたを這って魔女の肉でも食い荒らしていたほうが似合いじゃないのか」

「フローズ殿下もそうだと?」

「まさか。姉さまがただの王族と同じに見えるか? あの人は奴らよりよほど綺麗だ。本当は地さえ歩かせたくないのに」

 スコールはヴィトニルが実姉以外の異母兄弟と話しているところを見たことがなかった。時たま兄弟の名を口にしても遠慮のない罵倒がついてくるほどに情などないらしい。九歳で新興貴族のガルム家に徴集されたスコールも、貴族という張りぼての肩書きと、義兄弟とは名ばかりの他人には何の誇りも思い入れもなかったが。

「こんな性分だ、王族じゃなくお前と組めたのはまだ気が楽だったがな。周りには仲が悪いと思われているらしい」

「知らない輩などいないでしょう。喧嘩はいいとして、もう少し加減して頂きたいのですが」

「手を貸してやってるんだから文句を言うな」

 面倒そうに鼻を鳴らしたヴィトニルは直ぐに顔を上げた。スコールも何度も経験した感覚のままに東の廃ビル群に目をやる。魔女の姿は認められないが風をきる音が聞こえる。下方に待機していた亜種たちも、スコールとほぼ同時に廃ビル群を見つめていた。

「東方から魔女の気配、応戦用意」

 二人は首から下げたネックレス状の小型端末から後方に待機させていた配下の隊に指示を出す。

「手筈通りにやれよ」

「殿下こそ、どうぞ気兼ねなく」

 鉄塔を飛び降り駆け出していく。スコールは途中で何となく後ろを振り返ったが、そこには当たり前のように無残な住居跡があるだけだった。飛び去った烏が舞い戻ってきていたが、彼らはまたここを離れなければいけなくなるのだろう。

 

 

 血の臭いが立ちこめ始めるまでにそう時間はかからなかった。機械仕掛けの黒い獣、どの個体も一つ目であることから"モノ"と呼ばれた兵器が、逃げ遅れた人々に牙を剥く。身体を規則的に走り抜ける濃い桃色のネオン光と、違わぬ色の大きな丸い一つの瞳。未知の兵器の前ではいくら訓練を積んだ軍人もただの人で、容易く銃弾の雨を抜ける獣に為す術もなく身体を裂かれる者が大半だった。

 あらゆる声も音も全てが痛々しい。その中を走り抜け、モノを構成する金属の僅かな隙間に剣を突き立ててもそれはただの気休めにしかなり得なかった。モノは一度地に倒れても身体を再構築し、稼働音を立ててまた走りだす。だが――亜種でも破壊できないせいで人々が酷く怯えていたというのに、件のソロはそれをいとも容易く壊したと。東での目撃情報がある彼もこの騒ぎを聞きつけているかもしれない。

 運よく生き残った人々に避難路を伝え先を急げば、色を失い始めた空を駆ける十人の魔女が目に留まった。彼女たちは五人ずつに分かれ左右に散っていく。中でも戦地に似つかわしくない黒いドレスを着た魔女が目立っていた。

「あれか」

「特徴は一致しています。間違いないかと」

「今回で調査を終わらせろ。これ以上の猶予はない、ぬかるなよ」

 ヴィトニルはそう言い捨て、黒いフードを被る。彼は崩れ落ちた古い木材を踏み台に高所へ上り、左へ曲がった小隊を追って姿を消した。

「ライラプスと思しき敵影を発見した。これより調査を開始する」

 スコールは配下の小隊に通信を飛ばし、右方へ飛び去った魔女をつけると寂れたアーケードの商店街に辿り着いた。廃ビル群の最奥であるこの区域は都会と地方の境目だ。所々天井が抜け壁も砕かれた商店が立ち並び、店に掲げられていただろう看板は地に落ちている。商店街を覆う割れた硝子の天井から橙の陽が射す中、文字通りの血の海だった。

「お前たちはアーケードと住宅街、両方を確認できる場所に待機しろ。指示を出すまで動くなよ」

 予め高所に待機させていた小隊に指示を出す。死体の多くはこの辺りに逃げ込んできた隣区担当の軍人だろう。頑なに故郷を捨てなかった一般人も見受けられる。誰も彼もが恐怖による慟哭を湛えたままの顔を晒していた。剣によってつけられた死体の傷は急所だけを狙われていて、全てが一瞬だったに違いない。

 十字路に差し掛かったその時、ヒールの独特な足音が建物の残骸に反響した。垂れ下がった天井の鉄柱の陰から、誰かが死体を引きずってこちらに近づいてくる。陰を出て夕光の下に現れた、やはり戦場には不釣り合いな黒いドレスを来た彼女が剣で宙を斬ると、滴っていた血が地面に線を描いた。

 彼女は左手で引きずっていた死体を投げて寄越す。スコールとの間、十メートルの距離の真ん中に落ちた黒髪の男。四肢がひしゃげるような、ぐしゃりと音を立てたそれは先程まで生きていたとは思えない。 

「あなたのお兄さんかしら」

 死体をよく見ると髪に灰のメッシュが入っていた。亜種の容姿は血縁があろうとなかろうと似通う特性があり、特に髪の色がそうだった。確かに見たことのある顔をしているが、名前は思い出せない。

「あまり覚えがない。目を見張るような功績もなかった奴だ」

「貴族って案外冷めた関係なのね」

 肩をすくめる彼女には見覚えがあった。あの冷たく青い瞳に一度目をつけられればどこに逃げようとも食い下がる。まるで狩猟犬だと称され、そう噂した軍人も一人ふたりと消えていく。

「ライラプスだな。仲間はどうした」

「あなたこそ、相棒はどうしたの」

 ライラプスの胸元に下げられた地上のものとは少し違う通信機、棒状の金属の中央にはめ込まれた青い石は彼女の瞳の色と同じだ。彼女は石を人差し指で三回叩いた。垂れ下がる鉄柱の向こうから銃声と剣戟の音が響いている。

「訊くだけ無駄だ」

「それもそうね。あなたってお喋りが好きそうには見えないもの」

 彼女の揶揄に耳を貸す義理もない。スコールは十字路を右に走った。ライラプスがその様子を目だけで追っているのが見える。彼女と交戦するのは初めてだったが、噂が本当ならどこへ逃げても追ってくるはずだ。

 能力の詳細を目で見ることができないか、対峙した者が尽く死にゆくために能力の詳細が分からない魔女は多くいる。彼女たちは地上軍によってリストアップされ、調査対象を割り振られた軍人は魔女を発見次第、能力の調査を試みなければならない。能力を見切らなければ対策の立てようもない。調査ではどれだけ危険な賭けでもやってのけなければ。それで死ぬのならそれまでだったということだ。

 ライラプスが追ってくる気配はなく、スコールはアーケードの東口を出て、南口の向かいの木造建築が立ち並ぶ住宅街に入り込み通りを不規則に進んだ。

「ライラプスはアーケードから出たか」

『いいえ、東口からも出ていません』

 部隊の報告を聞きながら、住宅街のさらに奥に進み待機する。肉眼で捉えられていなければ場所が分かるはずもない。噂を確かめるにはいい状況だろう。

『南口から出ました! 歩いて住宅街に向かっています!』

 明らかにライラプスはスコールを普通には追っていない。見失うリスクがあるのに走りも飛びもせず、東口ではなく南口を使い、スコールの居場所までの最短ルートを選んでいるように思える。

 スコールは動くことなく様子を伺っていたが、ライラプスの靴音は確実に迫ってきていた。路地裏をじぐざぐに進んだのだから、南口から一直線の場所にいるわけではない。この広い住宅街で一箇所を当てるなどただの勘ではできるはずもなかった。

「隠れたつもりなんでしょうけど」

 ライラプスの声が住居間の木板一枚を隔てたすぐ先で聞こえても、スコールは至極冷静だった。アーケードから出て五分も経っていない。彼女は迷路のような空間で一瞬も迷わなかった。つまり彼女の能力は予知、透視の類か。

「何人この方法で殺したと思ってるのかしら」

 その声を聞いた瞬間、スコールは右に飛び退いた。間髪入れずに木板が砕かれる鈍い音が鳴る。木板はライラプスの剣で貫かれ、スコールの背にしていた住居の壁に剣先が埋まっていた。スコールは臆することなくまた路地裏を無造作に走り抜けたが、どこを通ってもライラプスは最短ルートで追跡するだけでなく回り込んでくる。

 彼女は障害物を無視して標的の位置を透視している、そう確信したのは他に例があったから。

 住宅街の小道に出た瞬間、同じくすぐ横の路地裏から飛び出た彼女の剣を刀で受け流す。彼女の剣には鍔がない、柄と刀身だけの珍しいものだった。スコールの持つ東方の刀とも、ヴィトニルが持つ西方の剣とも違った構造だ。

「迎撃態勢に入れ!」

 部隊に指示を出すのもままならないほどの剣戟。住宅の壁を伝って屋根に登ればライラプスも当然追ってくる。受け止める彼女の剣は思いの外重かった。スコールは亜種である義兄弟と手合わせとして剣を交えることはあったが、あの手が痺れるような衝撃、かけられる圧力に引けをとらないのではないか。身体機能を強化する能力を持つ魔女は比較的多い。ライラプスもその類なのかもしれないが、それに透視能力が加わっているのは妙な話だ。

「二重能力など聞いたことがない……!」

「さあ、どうかしらね」

 ライラプスは鍔迫り合いの向こうで不敵に笑う。魔女の能力に個性はあれど亜種にはない。魔女はこちらが身体能力が高いだけの生物だと分かりきっているからまだいいが、スコールは猛攻に耐えながら考えを巡らせる必要がある。

 動揺を逃すまいとライラプスが剣の向きを変えた。スコールの刀は上方向へと打ち上げられ、大きく弾かれたせいで体勢を崩した彼の足は地に着かなかった。落ちる、と理解した瞬間に腹部を下方向へと蹴り飛ばされる。

 落下した先は既に割れた壁が剥き出しになっていた場所で、強く叩きつけられたせいで背に激痛が走った。一枚鋭くなった小さな木板が右腹部を刺していたが、痛みは波のように引いていくはずだ。倒れている暇などない。とどめを刺すため追撃してきたライラプスの剣を転がるようにしてかわし、そのまま地に落ちた刀を拾い上げて走った。通りの開けた場所に逃れると、指示通りスコールの部隊が路地内にいるライラプスに一斉に照準を合わせていた。

 銃撃の音は長くは続かなかった。兵の放った銃弾は二発ほどは当たったようだがいずれも致命的な一手にはならず、ライラプスは宙で銃弾の雨を避け、追跡は緩められない。ライラプスはスコールを狙うことで、自身に向かう銃弾を最小限に抑えられると知っている。

 相手が相手だ、とにかく視界を広げなければ後手に回る羽目になる。スコールは再び住宅街の屋根に飛び上がった。

「身体はいくらか頑丈でも痛みは誤魔化せないでしょう?」

 二度目の鍔迫り合い。言葉は軽くとも先程よりも剣に勢いがなかった。彼女の右腕は血に染まっていて、力があまり入っていないと見れば分かる。馬鹿なことを言うものだ、そんな侮蔑の笑みで彼女を睨みつけ、先の衝撃で口内に溜まった血を吐き捨てた。

「誤魔化せるさ! 貴様らのような化け物には理解できないだろうがな!」

 怪訝な顔をしたライラプスの隙を突き、刀を薙ぎ払い生まれた隙間に潜り込んで追撃する。攻勢に転じ、痛みなど殆ど感じていないスコールに対し、ライラプスは腕を撃たれた痛みに口を引き結んでいる。地上には痛みを忘れられるような薬物などいくらでもあるということを彼女は知らないのだろう。

 猛攻に耐える足取りもよろめき始めたライラプスに蹴りを食らわせる。彼女が屋根に叩きつけられる衝撃で屋根瓦が二、三枚剥がれた。その音に紛れるように聞こえた無機質な稼働音と、怯えたような慟哭、銃撃の音。通りの部隊の方を振り返ると、彼らにあの機械仕掛けの獣が飛びかかろうとしているのが見えた。

 だが兵たちの叫び声はすぐにざわめきへと変わる。空から降り立つように現れ、モノの背部に剣を突き立てる影。スコールは声も出なかった。金属と金属の僅かな隙間を刺され、地に倒れたモノはいつものように再び立ち上がりもしない。自分もこれまでモノに対して同じ方法で攻撃していたはずだった、なのになぜ彼だけがあれを壊せる? どす黒いオイルの流れる機体から剣を静かに抜いた、白い外套のあの姿、他に誰がいようか。

「ソロ……」

 やっとのことで出した声には動揺が現れていることが自分でも分かる。こちらを見上げた男の顔は、深く被ったフードに隠され暗く半分も見えなかった。

 突如すぐ横に迫った剣を刀で受け流す。狩猟犬と称されたライラプスはその名を体現するように食い下がった。ちらりと見た先にソロは既におらず、彼はライラプスの背を狙って剣を振るっていた。ライラプスは突然の乱入者に顔を顰め、容赦のない二本の剣をいなし数メートル先の屋根上に着地した。自然とすぐ傍らに立ったソロの目は見えずとも、口元はどこか弱々しく微笑んでいるように見える。

「何のつもりだ」

「心配はいらない。俺は人間だ」

「どうだか……」

 ソロの動きは明らかに亜種に似通ったものだった。人間ならあのモノが倒れている場所から二度の跳躍でこの高所に来られるはずがない。ライラプスは肩を上下させながらも胸の通信機に手を当てていた。

「そう……あなたが陛下の機械を破壊している……。人間でもなければ亜種でもないわね。どうしてあなたにも視えているの」

 みえている、とはどういう意味だろう。亜種には見えずソロには見える何かがある――?

「視えるものは視えるから、としか」

 その言葉を聞いた瞬間、スコールは背が凍りつくような感覚を抱いた。依然整わない呼吸を通す喉から妙な音が出る。

 透視能力。スコールはライラプスのものに似た能力を持つ者を知っている。だからこそ彼女の能力に予想がついた。

 彷徨う視線を無理矢理にでも傍らの男に向ける。隠された顔は何も教えてはくれない。ライラプスは通信機に触れ続け、人差し指を少し動かしている。あの機器に通信以外の機能が備わっているかどうかはスコールの理解の範疇ではなかった。先程の三度石を叩く合図のようなものといい、何を仕掛けてくるか分からない。スコールは震えたままの手を強引に刀の柄にかけ、左足を後方へとにじる。

「魔女でもないのにそんな力を持てるわけがない、どういうことか確かめ……」

 彼女はぴたりと電池が切れたように動きを止め、押し黙っている。何かに耳を澄ましているようだった。恐らくは通信機から彼女にだけ聞こえる音声だろう。

「リュカオン……?」

 ライラプスの顔から一気に血の気が引いたのが目に見えた。

「何をしているの! 撤退しなさい、あなたの手に負える相手じゃない!」

 今までの冷静を捨てて通信機に怒鳴る彼女は、音がなるほどに歯を軋ませスコールだけを鋭く睨む。

「本当に……躾のなってない犬ほど嫌いなものはないわ……!」

 ライラプスはすぐさま背を向け急くように飛び去った。スコールは彼女を追おうと足を踏み出したが、腕をソロに掴まれ引き戻される。

「止せよ、怪我してるんだから」

 ソロの判断はまともなものだった。過去を教訓とするのならば魔女を追ってはいけない。軍規は守って然るべきなのだろう。

「……なぜだ」

 本当はライラプスを追う気力などとうに削がれていた。掴まれたままの腕を振り払うこともできない。かろうじて振り絞った声はどうしようもなく惨めに震えている。

「なぜお前がここにいるんだ、ユーリス」

 息がつまる感覚を鮮明に感じた。目の前の男を問いただす言葉すら口にできず、やはり何も言わないでくれと請うこともできなかった。何よりも、こんなところで会いたくなどなかった。

「ごめん」

 ソロはゆっくりとフードを親指で押し上げる。その下から現れた黒と白が混ざる髪、ほんの僅かに違った虹彩の両の瞳。かつての面影が残る顔にはあの頃の無条件な明るさはない。それでも無理して作ってみせる笑みが痛々しく顔を伏せるようにして目線を外す。突然の謝罪に続ける男の声は僅かに震えていた。

「もうお前に……何から謝ったらいいのか、わからないよ」

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